2012年04月29日
“みんな”
日本人って不思議な人々だなぁと思う。“みんな”と共にあることに無上の歓びを感じるんだろうなあ。
だから、"RIOT"はたぶん起きない。それは“みんな”に迷惑をかける行為だから。「避難とか放射能危ないとか騒いでる人はちょっと… だって、“みんな”食べてるんだし、毎日仕事して頑張ってるんだし… 自分だけいつまでも怖いとか嫌だとかいうのはちょっと…」
たぶんふつうの日本人にとって“みんな”とはぐれてしまうことは最大の不幸であり恐怖であり恥なんだ。“ひとり”になることはそれだけで負けなんだろう。
表面的に見れば、悪いこととは言えない。集合的多数のために個々が力を尽くすのは必要なことだし、美しくさえある。でも、僕自身は正直、どうしようもない居心地の悪さを感じる。
「“みんな”やってるし」「“みんな”使ってる」「“みんな”そんなこと気にしてない」「“みんな”そうやって儲けてる」そんな風にして、日本人は大量消費漬けになり、島は「開発」されつくし、手付かずの自然が残っている稀有な場所は原発の建設地となった。
そして“みんな”が大好きな割に、現代の日本人には利己的で冷たい印象を受けることのほうが多い。ホームで人身事故のアナウンスを聞いて舌打ちする人たちが、どの口で「“みんな”のため」を謳うのか。
つまり、そこには“みんな”に対する従属と配慮はあっても、ひとりひとりの“あなた”“彼”“彼女”に対する思いやり(=忍耐と寛容)はないような気がする。“私”に対しても…
“友愛”とは“ひとり”であることの重さを引き受けた者同士が、互いの相違点や反発点を許容した上で、同じ人間同士として手を差し伸べあうことだろう。
“みんな”は“ひとり”をないがしろにする。みんなと違う“ひとり”の存在を嫌がる。だからそれは“友愛”にはなり得ないし、“ひとり”が存在しない以上、誰も責任を取らないのだ。
そうそう。“みんな”においては「誰も責任を取らない」。
2012年01月29日
『Canta ! Timor』を観た
昨日は松本のあがたの森文化会館で広田奈津子監督『Canta! Timor』を観た。妻が以前、あるイベントで監督にお会いしたことがあり、“リアルナウシカ”のような人だと言っていた。いい映画だった。いろいろ考えた。
4〜5年前、埼玉の有機農家で研修していた時に、3ヶ月ほど東ティモールから研修生が来ていた。当時は「どこだっけ?」「ニュースで聞いたことある」「戦争してるんだっけ?」という程度の認識だった。無口で誠実な2人だったが、慎み深いたたずまいの奥に悲劇があったとは… 東ティモールの独立を勝ち取るために3人に1人が死んだのだ。
研修が終わるとき、友人宅で東ティモールの2人を招いて食事をした。彼らは輪になって手をつないで足を踏み鳴らす踊りを教えてくれた。映画を観て、それが「テベ」という伝統の踊りであり、独立運動の中で人々の団結の源であったことを知った。彼らは日本人にそれを教えてくれた。
東ティモールの情勢が安定しない理由の一つは、沖合いにある海底油田・ガス田の利権に目をつけている国が多いからだと言われている。日本は東ティモールの独立運動に対して激しい武力弾圧を加えていたインドネシアに多額の経済援助をしていた。
地下資源は利権を生み、領土の境界の問題をこじらせ、戦争を生む。原発のオルタナティブとしてのGTCCの即戦力は否定しないが、天然ガスは地下資源であるからして、宿命的にこの構造の一部をなすことになる。
太陽光などの自然エネだって、利権構造を生まないわけではない。だが地下資源と異なり“領属化”しにくい性質上、国家ぐるみの軋轢は生みにくいだろう。とはいえ、「地下資源は利権を生む」という言い方は不公平かもしれない。利権構造を産むのは、人間の“欲”だ。
ティモール軍は捕虜にしたインドネシア兵を決して殺さなかったと言う。自分たちの考えを誠実に説明し、釈放したのだそうだ。その結果、インドネシア人の間にもティモール独立のシンパが増えていった。その信念と忍耐に脱帽する。
今の日本人にそれに匹敵する信念と忍耐が持てるだろうか?持てなければ脱原発も真の民主主義の実現も心もとないと思う。
2012年01月23日
「決闘」的思考 〜原発国民投票に関して〈其の二〉
議論においては相手の主張を否定することではなく、こちらの主張を理解してもらうことが肝要だと思う
原発国民投票に関する議論を見てると、ほとんど叩き合いに終始していて暗澹たる気分になるんだよね。
そしてこれ、市民の政治参加の方法論における“オールドスクール”と“ニューカマー”のヘゲモニー争いの様相を呈してきていて、それがまたゲンナリする。
産業界がGTCCに舵を切ってそっち主導で脱原発が既成事実になるのか?飯田哲也氏の腹がどの程度黒いのか?そんなことを断定的に推測できるほど私は情勢通ではない。
でも、はっきり言えるのは、ゴタゴタいうなら投票(多数決)で決めよう、直接投票なら恨みっこなしだ、というのはたいへん粗大な論理だということだ。民主主義の未来はそっちじゃねえだろ!と思う。
国民投票が実施されれば、否が応でも議論が尽くされるはず、という人もいるが、そのときの議論は対話を目指したものではなく、対立する主張をひたすら撃ち落すためのものになるだろう。なぜならその後に投票(多数決)という「決闘」に臨むのだから。
多数決は数を弾丸としたDuel(決闘)の構造を持っている。票を弾丸にした本土決戦が行われるとき、本当にこの国に民主主義が訪れるだろうか?
「多数決に依らない民主主義を想像(創造)できない」と言うのは「資本主義のオルタナティブを想像(創造)できない」と言うのと似ている。さらにそれは「経済成長に依らない豊かさ」「消費に依らない幸福」を想像(創造)できないと言うことと通底している。


