2017年12月09日

『ブレードランナー2049:ポスト・ヒューマン資本主義の光景』スラヴォイ・ジジェク

BLADERUNNER 2049: A VIEW OF POST-HUMAN CAPITALISM
By Slavoj Žižek


 資本主義とポスト・ヒューマニティの展望とはどんな関係にあるのだろうか?ふつう資本主義は(より)歴史的であり、ヒューマニティ(人間性)は、性の違いを含め、もっと基本的で場合によっては非歴史的であるとさえ考えられている。しかしながら、こんにち私たちが目撃しているのは、ポスト・ヒューマニティへの道を資本主義に統合しようとする試みにほかならない。イーロン・マスクのような新興カリスマ・ビリオネアたちが行おうとしていることはまさにそれだ。彼らが予言する「これまでの」資本主義の終焉とは“ヒューマンな”資本主義のことであり、彼らは人間の資本主義からポスト・ヒューマン資本主義への道のことを語っているのだ。そして『ブレードランナー2049』はまさにこのトピックを扱っている。

 一つ目の疑問。なぜ二体のレプリカント(デッカードとレイチェル)のカップルが性関係を持ち、人間的なやり方で人間を生んだことが、これほどトラウマ的な出来事として経験されているのか?ある者たちはそれを奇跡として祝福し、他の者たちは脅威として糾弾する。それは生殖にかかわることなのか?それともセックス、つまり人間特有の形態を取るセクシュアリティにかかわることなのか?この映画では生殖という面にしか焦点をあてておらず、またしても大きな問いを無視している。生殖という機能を剥奪されたセクシュアリティはポスト・ヒューマン時代において存続することが可能なのか?という問いだ。セクシュアリティのイメージは標準的なものにとどまっている。性行為は男性の視点から描写される。肉体を持つ人造人間の女が、男に奉仕するために製作されたホログラムの幻影である女性ジョイの物質的補完物へと還元される。「彼女は実在する人物の肉体とオーバーラップしなければならないので、絶え間なく2つのアイデンティティーの間を行き来することになる。彼女こそが分離された主体であり、女体は幻想のための乗り物でしかないことを示すのだ。」[1] というわけで、この映画のセックス・シーンはあまりにあからさまに「ラカン的」だ(『her/世界でひとつの彼女』なども同列)そこでは本来のヘテロ・セクシュアリティと異なり、パートナーは真に他者ではなく、自身の幻想を行為化するための補助に過ぎない。[2] さらにこの映画は、同じ人造人間の間にある潜在的に敵対的な差異について探求することにも失敗している。それは「血肉でできた」身体を持つ人造人間と、3Dホログラムの身体しか持たない人造人間の差異である。件のセックス・シーンにおいて、血肉でできた人造人間はどうやったら男性の幻想の物質的補完に貶められることを受け入れ得るのだろうか?なぜ彼女はそれを拒絶し、サボタージュしないのだろう?

 この映画はありとあらゆる搾取の様相を見せてくれる。例えば数百人とおぼしき人間の孤児を使ってごみの中から古い電子機器を拾い集めさせている事業主など。伝統的なマルクス主義の立場からは、奇妙な疑問が湧いてくる。製作物である人造人間が労働する場合も、やはり搾取が行われているといえるだろうか?人造人間の労働は彼ら自身の商品価値を超え、オーナーにとって剰余価値となるほどの価値を生み出すのであろうか?

 人間の能力を拡張して都合の良いポスト・ヒューマン労働者/兵士を創り出すというアイデアは、20世紀を通して長い歴史を持つことを想起すべきだ。1920年代後半、他ならぬスターリンが一時期、生物学者イリヤ・イワノフ(レーニンが『唯物論と経験批判』で批判したボグダーノフの後継者)が提唱する“半人半猿”計画に資金を提供していた。それは人間とオランウータンの交配によって、苦痛、疲労、劣悪な食事に耐えうる完璧な労働者/兵士を創り出すことができるというものだった(無自覚な人種差別主義と性差別主義のせいでイワノフは当然のように人間の男性とオランウータンのメスをつがわせようとした。しかも、被験者にしたのはコンゴの黒人男性。遺伝的に類人猿に近いと考えていたのだ。そしてソビエト連邦政府はコンゴへの高額な遠征費用を負担した)。実験は失敗に終わり、イワノフは粛清された。さらに挙げるならば、ナチスは定期的に薬物を使って精鋭兵士の身体能力を高めていたし、現在でもアメリカ陸軍は遺伝子操作と薬物で疲れ知らずの兵士をつくる実験をしている(すでに72時間休みなしに戦闘できるパイロットを擁している)。

 フィクションの世界では、このリストにゾンビを加えることができる。ホラー映画においては、階級差はヴァンパイアとゾンビの違いという形で表わされる。ヴァンパイアは上品で優美で貴族的、普通の人間に混じって生活している。一方、ゾンビは無様で鈍重で汚らしく、外部から襲ってくる。まるで排除された者たちの原始的な反乱のように。『恐怖城(ホワイト・ゾンビ)』(1932年ヴィクター・ハルペリン監督)という、ヘイズ・コード以前につくられた初の長編ゾンビ映画は、ゾンビと労働者階級をはっきりと等式で結んだ。ヴァンパイアは登場しないが、ゾンビを操る悪の親玉を演じるのがドラキュラ役で有名になったベラ・ルゴシだということは意味深い。『恐怖城』の舞台はハイチのプランテーション。もっとも有名な奴隷の反乱が起きた地だ。ルゴシは別のプラテーションのオーナーの来訪を受け、ゾンビが働く自分の砂糖工場を案内しながら説明する。ゾンビは不満1つ言わずに長時間働き、組合をつくることもなく、ストもせず、ただただ働き続けるのだと… このような映画はヘイズ・コード以前でなければ撮れなかっただろう。

 標準的な映画の定跡では、ふつうの生活を営む(ふつうであると自認している)主人公が、自分が特別な任務を帯びた例外的な存在であることを発見する。『ブレードランナー2049』では逆に、いっときは自分が特別な存在(デッカードとレイチェルの子)だと思い込んだKが、次第に自分が(他のレプリカント同様)偉大さの幻影に取り憑かれた平凡なレプリカントに過ぎないことに気付いていく。だからこそ彼は最終的に、皆が探している真に例外的な存在であるステリンのために自らを犠牲にする。このステリンという謎めいた人物は重要だ。彼女はデッカードとレイチェルの“真の”娘、二人の性行為によって生まれた“ヒューマンな”娘である。レプリカントから生まれた人間の娘である彼女は、人間がレプリカントを製作するというプロセスを逆転させる存在だ。彼女は隔離された世界に生きている。本物の動植物と共に生きながらえることはできず、無菌状態(白い壁に囲まれた空っぽの部屋に白い服)に保たれている。デジタル・テクノロジーが創出したバーチャル宇宙を介してのみ人生を経験する彼女は、夢の創造主という相応しい役割を与えられている。レプリカントに移植する虚構の記憶をプログラムするフリーランサーとして。であるからして、ステリンは性関係の不在(というよりむしろ不可能性)を体現する存在であり、その代償として豊饒な幻影的タペストリーを織り上げるのだ。映画の最後で生まれるカップルが、普通の映画のように性的なカップルではなく、父と娘の非性的カップルであるのも不思議ではない。ラスト近くのショットが見覚えのあるものであると同時に奇妙でもあるのはそのためだ。Kはキリストのような体勢で雪の上で事切れる… 父―娘の対を成立させるために。

 この父娘の再会には贖罪の力があるのだろうか?それとも、舞台となっている社会における人間同士の対立について、この映画が症候的な沈黙を貫いていることを背景として理解すべきだろうか?人間の「下層階級」はどこに位置づけられているのか?とはいえ一方で、映画はグローバル資本主義における支配的エリートを分断する対立に関しては、適切に提示している。国家とその諸機構(ジョシを体現者とする)と、自己破壊に向けて進歩の追及を止めない巨大企業(ウォレスに体現される)の間の対立だ。「ロサンゼルス市警は国家の政治的-法的立場から事態を潜在的な紛争を孕んだものと見なす。ところがウォレスは生殖するレプリカントの革命的な生産能力しか目に入っておらず、それによって事業を有利にすることしか考えていない。彼の視点は市場のものだ。ジョシとウォレスの相反する視点に注目してみることには価値がある。なぜなら、それは政治的なものと経済的なものの間に存在する矛盾を照射しているからだ。別の言い方をすれば、それは奇妙なやり方で、階級国家メカニズムと生産の経済的様態における諸々の緊張の交点を示しているのである。」[3]

 ウォレスは本物の人間であるにもかかわらず、すでに人間ならざる者、過剰な欲望によって盲目となったアンドロイドとして振る舞っている。一方、ジョシは人間とレプリカントを厳格に分離しようとするアパルトヘイトを代表している。彼女の立場から言えば、分離が維持されなければ戦争と崩壊が待っている。「レプリカントの母親(もしくは両親)から生まれた子供はレプリカントなのか?自前の記憶を持っていても、やはりレプリカントなのか?レプリカントが自ら生殖できるとしたら、何が人間とレプリカントを区別する線となるのか?人間であることの徴とは何なのか?」[4]。

 というわけで、私たちはブレードランナー49に関して『共産党宣言』の有名な一節に補足を加えるべきではないだろうか。つまり、性的にも「一方的な立場を取ること、狭い了見を持つことはどんどん難しくなる」そして性行為の領域においても「堅固なものはすべからく空中に溶け出し、聖なるものはすべからく俗化される」すなわち資本主義は標準的、規範的なヘテロ・セクシュアリティを不安定でシフトし続けるアイデンティティー/志向に置き換えようとする傾向があるのだから。こんにちにおいては“マイノリティ”や“マージナル”な存在を称揚することこそが支配的なマジョリティの立場であり、リベラルなポリティカルコレクトネスの横行に不満を表明するオルタナ右翼さえもが、自身を脅かされたマイノリティの擁護者として提示してくる。あるいは、あたかもそれが今もヘゲモニックな立場であるかのように家父長制を批判する者たち。彼らはマルクスとエンゲルスが150年以上前に『共産党宣言』の最初の章に書いたことを無視している。「ブルジョワジーは、支配的となった場所ではすべからく、封建的、家父長的、牧歌的な人間関係に終焉をもたらした」。この言葉は、家父長制イデオロギーとその実践形態を批判の対象とする左派の文化理論家たちには、今なお無視され続けている。遺伝子的、あるいは生化学的に操作された人造人間、ポスト・ヒューマンが人間と人間ならざるものの間の区分自体を粉砕してしまうかもしれないという見通しなど眼中に無いことは言うまでもない。

 新世代のレプリカントはなぜ反乱を起こさないのか?「前作のレプリカントと違い、新型のレプリカントは決して反逆しない。これについては「しないようにプログラムされている」という以外にはっきりとした説明はなされない。しかし映画の中でヒントは示される:新旧のレプリカントの根本的な違いの一つに、虚構の記憶との関係がある。旧型のレプリカントが反逆したのは、もともと自分の記憶が本物であると思っていたため、それが本物ではないことが分かったことによる疎外を経験することができたからだ。新型のレプリカントは最初から自分の記憶が偽物であることを知っているため、裏切られたと感じない。すなわちポイントは、イデオロギーのフェティシズム的否認は、単にイデオロギーの支配に無知である場合以上に、主体を従属したものにするということだ。」[5] 新世代のレプリカントは本物の記憶という幻影と共に存在の確固とした内容を奪われ、それゆえに主体性の欠落に陥らされている。すなわち「substanzlose Subjektivitaet(実質を欠いた主体)」という純粋にプロレタリア的状況に置かれている。であれば、彼らが反逆しないということは、反逆というものを支えるには最低限、抑圧的権力によって脅かされた何らかの実質的内容が存在する必要がある、ということを意味するのだろうか。

 Kは国家と資本(ウォレス)の視界からデッカードを消し去るためにニセの事故を仕組む。と同時に、それはフレイザという名の女性が率いるレプリカントの反乱軍の目をくらますためでもある。言うまでもなく、フレイザという名はドイツ語で自由を意味するFreiheitに似た響きを持つ。ジョシに体現される国家機構も、フレイザに体現される革命勢力も、共にデッカードの死を望んでいる。フレイザもまた(レプリカントの生殖の秘密がウォレスの手に渡ることを恐れて)デッカードを消そうとしているという事実によって正当化されうるとはいえ、Kの判断は結果的に物語を保守的ヒューマニズムへと転回させる。それは核心となる社会的闘争から“家族”を免除しようとすることで、両勢力を共に残忍なものとして提示することになる。そして、どちらの側にもつかないことで、映画はその虚偽性をあらわにする。結局、すべては人間と、人間になりたい(もしくはそのように扱われたい)者と、自分が人間ではないことを知らない者を巡っているという意味において、あまりにヒューマニズム的なのだ。(遺伝子工学は私たち“ふつうの”人間もまた「人間ではないことを知らない人間」であることを明らかにしたのではなかったか。すなわちわれわれは自意識を持ったニューロ・マシンに過ぎないことを?)この映画はあからさまなヒューマニスト的メッセージを発している。それはリベラルな寛容ということだ。私たちは人間的な感情(愛、その他)を持つアンドロイドに人権を与え、人間らしく扱い、私たちの世界の一員とするべきだ… しかし、人造人間が登場したとき、世界はまだ私たちのものなのだろうか?今と同じヒューマンな世界と言えるのだろうか?ここに欠けているのは、意識を持つ人造人間の登場が人間の在り方そのものにどのような意味を持つのかという問いだ。われわれ人類は今までどおりの意味で人間であり続けることはできなくなる。では新しい何かが出現するのだろうか?それをどのように定義すればよいのだろうか?さらに、“リアルな”体を持つ人造人間とホログラムの人造人間が存在するとなれば、どこまでを人間として認めるべきなのだろうか?Kに仕え満足を与えるためにつくられたジョイのように、感情と意識を持つホログラム・レプリカントもまた、人間のように振る舞う実体として認知されるべきだろうか?ジョイは存在論的には自前の身体を持たないただのホログラムでありながら、映画の中ではKのために自身を犠牲にするという過激な行為に出たことを思い起こすべきだろう。彼女(と言っていいだろう)はそのようにプログラムされていなかったにもかかわらず。[6]


 こうした諸々の問いを避けて通ろうとすれば、(性と生殖という「プライベートな」領域が脅かされているという)ノスタルジックな脅威の感覚しか残らない。そして、この虚偽性は映画のビジュアル、そしてナラティブな形式そのものの中に刻み込まれている。そこでは抑圧された内容の回帰が見られるが、それは先進性を意味しない。形式はストーリーの先進的で反資本主義的なポテンシャルを不明瞭にする働きをしている。スローなリズムと美学化したイメージは、どちらの側にもつかない、受動的に流される存在という社会的スタンスを直接的に表明するものだ。

 では、人間とレプリカントの正当な接触とはどのようなものであり得ただろうか?意外に思われるだろう一つの例を挙げよう:『ウィンド・リバー』(Wind River 2017年 テイラー・シェリダン監督)は隔絶されたワイオミングの居留地で、真冬にレイプされ凍死して発見されたネイティブ・アメリカンの少女ナタリー・ハンソンを巡る映画だ。3年前にやはり娘が行方不明になった猟師のコリーと若きFBI捜査官ジェーンが事件の謎に挑む。最後のシーン、コリーはハンソン家を訪れ、そこで絶望の底にいるナタリーの父マーティンが“死化粧”(青と白のペインティング)をした顔で表に座っているのに出くわす。どうやって死化粧を習ったのか訊ねるコリーにマーティンはこう答える。「習ってなどいない。適当にやっただけだ。もう教える人などいない。」そして、電話があった時、すべて放り出して死のうと思ったのだと言う。それは不良息子のチップから、刑務所から釈放されたのでバスステーションに迎えに来てほしいと言う電話だった。マーティンは「この馬鹿げたのを洗い落としたら行く」「迎えに行かなきゃならないが、ちょっとの間、一緒に座ってくれ。時間はあるか?」コリーは“イエス”と答える。無言で座る二人。そこへテロップが始まる。「ネイティブ・アメリカンの女性だけは行方不明者の人種別統計データが採られておらず、どれだけの数がいなくなっているか分からない」と。

 このスクリーン上の文字だけが、エンディングの簡潔な美しさを微かに汚している(それは自明なことを述べているのみならず、この極めて実存的なドラマに偽りの客観性を持ち込んでしまう)。根底にある問題は、耐え難いトラウマ的な喪失を克服することを可能にする喪の儀式に関するものだ。そして、このエンディングがもたらす微かな希望の光とは、マーティンとコリーが、ただ静かに座るというこのミニマルな儀式によって、共にそれを乗り切ることができるだろうということ。マーティンの「この馬鹿げたのを洗い落としたら」という言葉を軽視することはできない。実際、死化粧は伝統的なものではなく、マーティンの適当な思い付きだったわけだが、たとえ伝統的なやり方で行ったとしてもそれは「馬鹿げた」ものであり続けるだろう。マーティンはすでに古来の民族的実質を取り返しがつかないほど失っている。彼はもはや“死化粧”に完全に没入することのできない、近代的な主体である。ところがここで起きている奇跡とは、彼自身がこのことを承知しているにも関わらず、思い付きの死化粧をしてただ座っているという儀式は、まさにそれが作為的な即興であることによって、真正の効果をもたらすということだ。それは「馬鹿げた」ものだが、この世のしがらみから身を引くという最小限の身振りによって効果を発揮する。忘れてはならないのは、コリーは居留地に住む白人であり、マーティンは彼にネイティブ・アメリカンの喪に連帯し、白人にとっては無意味な儀式に参加することを求めたのではないということだ。古来の文化に対するそのような恩着せがましいリスペクトは、もっとも唾棄すべきレイシズムの形の一つだ。マーティンの頼みに込められたメッセージは、彼もまたネイティブ・アメリカンの儀式に対する距離感をコリーと共有している、ということだ。白人であるコリーの感じる距離感はすでにマーティンのものでもあり、そしてこの距離こそが儀式を馬鹿げた「ネイティブの文化への感情移入」の一端などではない、真正なものにしている。私たちがここで目にしているのは、あのメビウスの輪を特徴づけるひねりの一例なのではないだろうか?儀式に対するナイーブな没入から、馬鹿げたものとしての完全な否定へと移行するとき、私たちは突然、自分が同じ儀式の中に戻ってしまっていることに気付く。そしてそれが馬鹿げたものであると知っていることで、その効果が損なわれることは決してない。

 これと同じようなことが人間とレプリカントの間で起きることを想像できるだろうか?二人で似たような空虚な儀式を創り出し、共に参加するような状況を?この儀式はそれ自体は全く無意味である。秘められた深いメッセージなど探しても無駄だ。なぜならその機能は純粋にトートロジー的なものだからだ。あるいはヤコブソンが言う「交話的 phatic」とでも言えるだろうか。

 「アンドロイドは人間のように扱われるべきか?」という問いに対して、たいていは意識や自覚といったものが議論の焦点となる。彼らは内的生活を体験しているのか?(プログラムされた記憶が移植されていたとしても、それらは真正なものとして体験され得る。)しかしながら、私たちは意識や自覚から無意識へと焦点を移すべきではないだろうか。彼らは厳密にフロイト的な意味での無意識を持っているのか?無意識とは深層にある不合理な次元などではない。むしろラカンならこう言っただろう。それは主体の意識内容に伴走するバーチャルな“別の場面 another scene”である、と。ここでまたしても少し意外な例を挙げよう。エルンスト・ルビッチ『ニノチカ』の有名なジョークを思い起こしてほしい。「ウェイター!クリーム無しのコーヒーをくれ!」「申し訳ございません。クリームは切らしてますが、ミルクならあります。ミルク無しのコーヒーでもよろしいでしょうか?」事実のレベルではコーヒーは元のコーヒーのままなのにもかかわらず、私たちはクリーム無しのコーヒーをミルク無しのコーヒーにすることができる。あるいはもっと単純に、否定だけを加えることで、ただのコーヒーをミルク無しのコーヒーに変えることもできる。「ただのコーヒー」と「ミルク無しのコーヒー」の違いは純粋にバーチャルなものであり、実際のコーヒーには何の違いもない。全く同じことがフロイトの無意識についても言える。その地位もまた、純粋にバーチャルなものだ。それは「より深層の」精神的リアリティーではない。簡単に言えば無意識とは「ミルク無しのコーヒー」における「ミルク」のようなものだ。そしてそこにこそ肝がある。私たち以上に私たちのことを把握しているデジタルな大文字の他者(big Other)が存在したとして、それは「ただのコーヒー」と「ミルク無しのコーヒー」の違いを識別することができるだろうか?それともデジタルな“ビッグ・アザー”は私たちが脳内、あるは社会環境内で自覚していないことまで把握できても、反事実的領域はその視界の外にあるのだろうか?ここで言っている違いは、私たちの存在を規定する脳神経細胞的、社会的な無意識と、純粋に反事実的な地位にあるフロイト的無意識の間の差異である。この反事実的領域がはたらくのは主体が存在する場合だけだ。「ただのコーヒー」と「ミルク無しのコーヒー」の違いを認識するためには主体が活動していなくてはならない。そしてブレードランナー49に話を戻すならば、レプリカントにはその違いが分かるのか?

[1]Todd MacGowan 私信より
[2]この映画は単にすでに存在する傾向を外挿しているにすぎない。超リアルなシリコン人形がブームになっている。Bryan Appleyard『Falling In Love With Sexbots,セックスボットとの恋』サンデータイムズ 2017年10月22日記事 P24-25より「近い将来セックスボットは実用化されるかもしれない。男性の40%が購入に興味を示している。未来のロマンスは一方通行の恋だけになるかもしれない。」この傾向が非常に強いのは、実際には何も新しい現象ではないからだ。性行為にいて典型的な男性は生身のパートナーを自分の幻想の補助に還元する。
[3] Matthew Flisfeder「天国と地獄の彼岸、私たちにはこの世しかない:ブレードランナー2049の真実“Beyond Heaven and Hell, This World is All We’ve Got: Blade Runner 2049 in Perspective,”」 Red Wedge. October 25, 2017.
[4] Flisfeder, 上掲
[5] トッド・マクゴーワン 私信より
[6] モスクワのPeter Strokinの指摘による。

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2016年06月18日

空飛ぶ車と右肩下がりの利益率について〜B〜

Of Flying Cars and the Declining Rate of Profit
DAVID GRAEBER

 これでパズルのピースがほぼ出そろったように見える。60年代に入る頃、保守的な政治勢力は、テクノロジーの進歩がもたらす、既存の社会を揺るがすような効果を警戒しだした。さらに事業主は、生産ラインの機械化による経済的インパクトを懸念し始めた。折しもソ連の脅威が薄れ始めたことで、リソースの流れを社会的・経済的アレンジメントを大きく揺さぶることのない分野へと再配分することが可能になった。それどころか、進歩的な社会運動の成果を無効にすることや、合衆国エリート層が言うところの「グローバル・クラス・ウォー」への勝利を決定的にするためにリソースが注ぎ込まれるようになった。このプライオリティーの変化は、大規模な政府プロジェクトからの撤退と市場への回帰として喧伝されたが、実際には政府主導の研究が宇宙開発や代替エネルギーなどといった分野から、軍事、情報、医療技術へとシフトしただけだった。

 もちろん、これですべてがスッキリするわけではない。そもそも、予算が潤沢に与えられるようになった分野の研究においてすら、50年前に期待されたような成果がまるで上がっていないのは何故なのか、ということの説明がつかない。ロボット工学の研究予算の95パーセントを軍が握っているのだとしたら、今頃は目から殺人光線を発射するキラー・ロボットが戦場に投入されているはずではないか?

 確かに、この数十年で軍事テクノロジーは進歩してはいる。私たちが冷戦を生き延びられた理由の一つは、核弾頭の性能が評判通りのものだったのに対して、発射システムはそうではなかったからだ。大陸間弾道ミサイルは特定の施設どころか、特定の都市を標的にすることさえおぼつかないような命中精度だった。このような状態では、ファーストストライク(先制核攻撃)に踏み切る戦略的な意味が無い。自動核報復システムを作動させて世界を破壊するのが目的なら話は別だが。

 現在の巡航ミサイルはこれに比べれば精度が高いとはいえ、いまだに数百発撃っても、特定の個人(サダム、オサマ、カダフィ)を暗殺することができないらしい。そして光線銃は実現していない。これは開発に着手されなかったからでは決してない。ペンタゴンは殺人光線の研究に膨大な資金を投じたはずだ。にもかかわらず、それに近いものと言えばいまだにレーザーだけだ ―確かに完璧な狙いで発射され、敵兵が正面から光源を見つめれば失明する危険はあるが… これでは戦術的にも技術的にもあまりに情けないだろう。レーザーは50年代のテクノロジーだ。出力をセットして敵を麻痺させることができるフェーザー(※訳注:スタートレックの位相光線銃)などは構想すらされていない。歩兵戦で使われる兵器と言えば、いまだに世界中でいちばんポピュラーなのはAK-47で、この自動小銃はソビエトで設計され、その名のごとく1947年に導入された。

 インターネットは革新的な技術かもしれない。しかし、とてつもなく速くて世界中からアクセス可能だとはいえ、しょせんは図書館と郵便局と通販カタログを組み合わせたものでしかない。50年代、60年代のSFマニアに、インターネットこそが彼の時代以降に出現した最も劇的なテクノロジーの成果だと言ったら、ひどく落胆するだけだろう。「世界中の科学者が50年かかって実現した最高のものがそれかい?俺たちは自分で思考するコンピューターを期待してたんだ!」

 70年代以降、研究開発資金は全般的には劇的に増大している。中でも瞠目すべきは企業セクターからの資金の増加で、今では私企業からの投資が政府の研究開発予算の二倍に相当するまでになった。そして、その政府予算さえも実質ドル価値で言えば60年代よりはるかに多い。それほど研究開発への投資額は膨れ上がっているのだ。 確かに“基礎研究”“知的探究心による研究”“青空研究”などと呼ばれる、短期的な実用性を追及しない ―よって予期せぬブレイクスルーが起こる可能性が最も高い― 研究への投資の割合は小さい。しかし、全体で動いているカネがとてつもないものなので、基礎研究への資金供給のレベルも全般的に見れば上がっている。

 にもかかわらず、その割に成果が振るわないのは、仔細に観察すれば明らかだろう。100年前にあったような絶え間ないパラダイムシフトの連続 ―遺伝子学、相対性理論、精神分析、量子力学― は望むべくもない。なぜだろう?

 その理由の一つは、一握りの巨大プロジェクト ―いわゆる“ビッグ・サイエンス”と呼ばれるもの― へのリソースの集中にある。よく引き合いに出されるのはヒトゲノム計画だ。30億ドル近いカネを使い、5か国で何千人という科学者やスタッフを動員した結果わかったのは、遺伝子配列を操作しても他人にとって有益な結果はたいして得られないということだけだった。こうしたプロジェクトを巡るハイプや政治的投企のありさまを見れば、現代においては基礎科学研究でさえ政治的、行政的、そしてマーケティング的要請に突き動かされていることがよく分かる。これでは革新的なことなどほぼ起こりようがないだろう。

 私たちはシリコンバレーやインターネット黎明期の神話に酔って、あるがままの姿を見ることができなくなっている。おそらく多くの人は、現代では研究開発というものは、反骨精神旺盛な起業家や、オープンソースのソフトウェア開発のように脱中心化された企業集団によって行われていると想像しているのではないだろうか。これは真実ではない。そういったタイプの研究チームが結果的に成果を上げることが多いのは確かだが、研究開発自体はいまだに巨大な官僚的プロジェクトによって推進されているのである。

 実は変わったのは官僚制のありようのほうだ。政府、大学、企業の絶え間ない相互貫入の結果、あらゆる人々が企業世界に起源を持つ言語、感受性、組織形態を採り入れるようになった。これはマーケッタブルな製品をつくり出すには効果があるかもしれない。企業とはそもそもそれを目的にデザインされた組織だからだ。しかし、独創的な科学研究を育成するという面では、結果は壊滅的だったと言わざるを得ない。

 私自身の経験から語れるのは、アメリカとイギリスの大学についてだ。どちらの国の大学でも、この30年間で管理事務に費やす時間が文字どおり爆発的に増え、他のあらゆる仕事を圧迫するようになった。私のいる大学でも管理職(アドミニストレーター)の数が教職(ファカルティ)の数を上回っているし、その教員たちでさえ、授業と研究を合わせたのと同等またはそれ以上の時間を管理事務に費やすことを期待されている。この傾向は多かれ少なかれ世界中の大学に共通して見られる。

 管理事務の増大は、大学が企業的な経営手法を取り入れたことの直接の結果だ。こうした動きはいつだって効率化、あらゆるレベルへの競争の導入、などという名目で正当化されてきている。しかし現実には、誰もが何かを売り込もうとすることに自分の時間の大半を費やすことになっただけだ。補助金の申請、書籍出版の提案、学生の就職斡旋や奨学金査定、同僚教員の査定、新たな学際的専攻/研究所/学会/ワークショップの設立趣案、などなど。もはや大学自体も、未来の学生や出資者に対してマーケティングされるブランドでしかない。

 大学は今やマーケティングに席巻されている。想像力や独創性を育むなどと言った文句の踊る文書を産出しながら、実際には想像力と独創性をゆりかごの中で絞め殺していると言っても過言ではない。この30年間、アメリカの大学から社会科学の分野での新しい重要な仕事はひとつも出ていない。私たちはもはや中世の修道僧のように、70年代のフランス思想の注釈を飽きもせず書き続けているだけだ ―もし現代のジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコー、ピエール・ブルデューが現れたとしても、教職員の終身雇用資格(テニュア)を与えることはできないだろうという後ろめたさにつきまとわれながら。

 かつてアカデミアは、エキセントリックで実社会に居場所のない知性のための避難所だった。今やそこは職業的セルフ・マーケッターが跋扈する世界となった。私たちは歴史上、稀に見る異様な自己破壊的発作により、社会の中からエキセントリックで実用性のない知性の居場所を抹消してしまったようだ。その結果、彼らは実家の地下室に引きこもり、時折インターネット上で突発的な自己表出をするだけとなった。

 最小限の研究費で個人研究が可能な社会科学の分野ですらこうなのだから、宇宙物理学者にとって状況がどれだけ酷いかは想像に難くない。実際、最近ジョナサン・カッツという宇宙物理学者が、科学を志す学生に対して警告を発した。誰かの遣いっ走りとしてお決まりの10年を耐え抜いたとしても、君たちの最良のアイデアは機会あるごとにクサされるだろう、と。

君たちは研究よりも提案書を書くことに多くの時間を費やすようになる。さらに最悪なことに、君の提案書は君のライバルによって査定されることになる。君は自分の興味を追求することなどできず、他人の批判を予測し、それをどうやって逸らすかに才能と努力のすべてをつぎ込むことになるだろう。重要な科学的問題を解明することはそっちのけで… 言うまでもないことだが、提案書にとって独創的なアイデアなどというものは自殺行為も同然だ。なぜなら、それはうまくいくことが保証されていないわけだから。

 テレポーテーション装置や反重力シューズが実現しない理由がだいたい分かった気がしないだろうか。ふつうに考えて、科学的な創造性を最大にしたければ、並外れて頭のいい人々を集めて、思いついたことを何でも追求できるリソースを与え、好きにやらせるのが一番だろう。ほとんどはモノにならないだろうが、1人か2人はとてつもない発見をするかもしれない。反対に想定外のブレイクスルーを可能な限り抑え込みたいのなら、研究者たちにこう言えばいい。あらかじめ研究から何が得られるかが確実に分かっていなければリソースは与えられない、と。そして、誰が最も説得力のある提案書を出してくるか競わせるのだ。彼らは与えられた時間の大半をそれに費やすだろう。

 自然科学においては、こうしたマネージメント主義の暴虐に加え、研究成果のプライベタイゼーション(私有化)が著しい。イギリスの経済学者デビッド・ハービーが指摘するように“オープンソース”の研究というのは新しい概念ではない。学術研究において研究者は研究用資材と研究成果を共有するのが当たり前だったわけで、それはいつだってオープンソースだったのだ。もちろん競争はあったが、友好的なものであり排他的ではなかった。これは現代の企業セクターに属する科学者たちにはもうあてはまらない。そこでは発見は嫉妬深く護られる。そしてこの企業的エートスが学界や研究機関にまで浸透した結果、公的な研究予算を得ている学者たちですら、発見を個人の所有物のように扱うようになった。学術出版社は、出版された情報をどんどんアクセスし難くしていき、知的コモンズをさらに囲い込んでしまっている。こうして、友好的なオープンソースの競争であったものが、古典的な市場における競争と似たようなものに変質してしまった。

 プライベタイゼーションはさまざまな形をとる。もっとも極端な例は、大企業が自らの利益に反するような不都合な発明を買い上げ、握り潰してしまうというものだろう。(いったい石油企業によって買い上げられ、金庫に入れて鍵をかけられたままになった新しい人工合成燃料はどれだけあるのだろうか。知る術はないが、そんなことは全く起きていないと考えるほうが難しい。)もっと隠微なのは、冒険的で突飛で、すぐに結果が出ないような試みをすべからく意気阻喪させるマネージメント主義のやりかただ。意外なことにインターネットもここでは問題の一部である。ニール・スティーヴンソンは言う;

企業や大学で働く人なら誰でも、以下のような場面を目撃したことがあると思う:何人かのエンジニアが集まって、アイデアを出し合っている。議論をするうち、可能性のありそうな新しいコンセプトが形を成してくる。すると、部屋の隅でラップトップを開けている誰かがちゃちゃっとググって、この“新しい”アイデアが実は古いものであったことを告げる。既に誰かが同じこと ―あるいは多少なりとも似たようなこと― を試みていたというわけだ。失敗したか成功したかは、この際関係ない。失敗したのなら、経営者がそれを再び試みるためにカネを使うことを承認するはずはない。誰だって仕事は失いたくないものだ。成功したのなら、当然パテントが取得されており、新規にマーケットに参入することは不可能だと考えられる。最初に考えついた者が“ファースト・ムーバ―・アドバンテージ(先行者利益)”を行使し、“バリア・トゥ・エントリー(参入障壁)”を設けているのがふつうだ。おそらくこんなふうにして、何百万、何億という見込みがあるアイデアが流れてしまったことだろう。

 このように、私たちの文化的生活のあらゆる相を、小心な官僚的心性が覆い尽くしている。クリエイティビティ、イニシアティブ、起業精神などといったものは空疎な飾り文句でしかない。コンセプチュアルなブレイクスルーを成し遂げる可能性のある知性ほど予算に与る見込みが低く、たとえブレイクスルーがあったとしても、その最も革新的な可能性の中心をフォローアップして追求しようとする者は現れないだろう。

 ジョヴァンニ・アリギは、南海泡沫事件以降、イギリスの資本主義はほぼ企業の形を採らなくなったと指摘している。産業革命の頃には、イギリス経済は高度な金融と小さな家族経営の会社に負うようになった。このパターンは次の世紀 ―科学的発展と技術革新が最大化した時代― を通して続いた。(当時のイギリスは現代のアメリカとは全く対照的に、奇人変人に対して寛容だった。よくある利用法として、彼らは地方の教区牧師に任命され、アマチュア科学者として数々の発見に貢献した。)

 現代の官僚的コーポレイト・キャピタリズムは、イギリスではなくアメリカ合衆国とドイツによって創られた。英国の後にどちらが覇権国家の座に着くかを巡って、二度も血みどろの戦争を戦った二国である。二つの世界大戦のクライマックスは、どちらの国が先に原子爆弾を ―当然、政府主導のプログラムによって― 開発するかというものだった。相応しいことに、現在のテクノロジーの停滞が1945年、すなわちアメリカが世界経済のオーガナイザーとしてイギリスに取って代ってから顕著になったことは特筆すべきである。

 アメリカ人は自分たちが官僚的だとは考えたがらない ―その真逆だ。しかし、官僚制を政府機関特有の現象と考えるのを止めれば、まさしく官僚国家そのものになっているということが分かるだろう。ソ連に対する最終的な勝利の結果、得られたのは市場の席巻ではなかった。実際にそれがもたらしたのは保守的なマネージメント・エリート、企業官僚の不動の支配だった。彼らは短期的、競争的、損益収支的思考によって、少しでも革命的な意義のあるものをすべからく握り潰してしまう。

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 もしあなたが、自分が官僚主義的な社会に生きていると気づけないとしたら、それは官僚的なノルマや手続きがあまねく浸透し過ぎて、見えなくなっているためだ。あるいはさらに悪いことに、それ以外のやり方を想像する事さえできなくなっているのだろう。

 コンピューターは私たちの社会的想像力を狭める上で大きな役割を担った。18世紀から19世紀における産業の機械化の結果、世界中でフルタイムの産業労働者が増加するという逆説的な事態が生じたように、管理事務の負担を減らすために設計されているはずのソフトウェアが私たちをパートタイムあるいはフルタイムの管理事務員に変えてしまった。大学教授が助成金関係の事務に忙殺されることを避けられないように、家庭の主婦もまた子どもを学校に通わせるために毎年数週間かけて40ページにも及ぶオンライン・フォームに記入することを当然のごとく受け入れている。誰もが銀行やクレジットのアカウントを管理するために携帯電話にパスワードを入力するのに時間を費やしている。かつては旅行代理店やブローカーや会計士がやっていた仕事を覚えるために、どんどん自分の時間を取られるようになった。

 平均的なアメリカ人は一生のうちのべ6か月もの時間を、信号待ちに費やしているという統計があった。書類やオンラインフォームの記入に関する同様の統計があるかは分からないが、少なくとも同じくらいの時間にはなるだろう。人類の歴史上、これほど多くの時間を書類仕事に費やしている国民は例を見ないだろう。

 この資本主義末期の破壊的な段階において、私たちは詩的テクノロジーから官僚テクノロジーへと移行しつつある、と言えるかもしれない。ここでいう詩的テクノロジーとは、奇想天外な空想を合理的技術を用いて実現することだ。詩的テクノロジーは文明の歴史と同じくらい古い。ルイス・マンフォードいわく、最初の高度な機械は人間でできていた。エジプトのファラオがピラミッドを建設できたのは、高度な管理手順を完成させていたからだ。彼らは生産ラインのテクニックを発達させた。複雑な仕事をいくつもの単純な工程に分解し、それぞれを作業員のチームに割り振った。当時の機械的なテクノロジーといえば斜面と梃子くらいなものだったが、管理監督の力が農民の群衆を巨大な機械へと創り上げたのだ。後世になって発明された複雑な工学的機械も、そもそも人間を組織化する原理を基に設計されていると言うこともできるだろう。

 私たちはそれらの機械 ―人間でできたものであれ、ピストンや車輪やスプリングでできたものであれ― によって不可能な夢が実現するのを実際に目撃してきた: 大聖堂や、大陸間鉄道や、月ロケットなど。もちろん、詩的テクノロジーには本質的に恐ろしいところがある。ポエジーとは優美で自由なものであるのと同じくらい、暗く悪魔的な起源を持つものだ。しかし詩的テクノロジーにおいては、合理性と管理技術はつねに何か夢のような目的のために使われるものだった。

 この観点から言えば、ソ連の気違いじみた巨大プロジェクトの数々は ―実現されなかったものさえも― 詩的テクノロジーの極みであったと言えるだろう。今の世界は全く逆だ。ヴィジョンや、創造性や、現実離れした夢がなくなったというわけではない。ただ、それらはおぼつかなく漂うだけで、もはや実現する気配すらない。歴史上稀に見る超大国が数十年をかけて、もう空想的で共同的な大事業を構想することはできないのだと国民に言い聞かせてきたのだ。たとえ環境の危機が迫っており、地球の未来が懸かっていようと。

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 こうしたことすべては政治的にどのような意味を持つだろうか?まず、私たちは資本主義に関する基本的な思い込みのいくつかを考え直さなくてはならないだろう。ひとつめは、資本主義と市場は同じものであり、どちらも国家の産物である官僚主義とは相容れないというもの。

 ふたつめの思い込みは、資本主義は本質的にテクノロジーに関して先進的だという考えだ。この点に関してマルクスとエンゲルスは産業革命に幻惑されて判断を誤ったように見える。いや正確に言えば、工業生産の機械化が資本主義を破壊するという点については正しかった。間違っていたのは、それでも工場主たちが競争によって機械化を余儀なくされるだろうという予測だ。そうならなかったのは、彼らの分析とは異なり、実は市場における競争は資本主義にとって不可欠ではないからだ。現代の資本主義を見たらマルクスとエンゲルスは目を丸くするだろう。そこでは競争のほとんどは巨大な半独占企業の官僚的構造内部でのマーケティングの形をとっている。

 資本主義を擁護する者たちは、大まかに三つの歴史的根拠を主張する。ひとつは、資本主義が急速な科学技術の発達を促した、というもの。ふたつめは、たとえ少数の人間に莫大な富が集中することになったとしても、それは全体的な繁栄を増大させてもいる、というもの。三つめは、その過程で、すべての人にとって安全で民主的な世界を実現している、というもの。いまや資本主義がこの三つのどれもやっていないことは明らかだ。事実、今では擁護者の多くも資本主義が“良い”システムだという主張を取り下げ、それが“唯一可能な”システムなのだという言い方に変わってきた ―少なくとも現代社会のような複雑で高度なテクノロジーを実現しうる唯一可能なシステムだ、と。

 しかし、現行の経済的アレンジメントだけが、未来において可能なあらゆるテクノロジーがもたらす社会において唯一バイアブルなものだなどと、どうして言えるだろう?馬鹿げた議論だ。誰にも分かるわけがないではないか?

 この立場をとる人たちは、実は政治的スペクトラムの両極に存在する。人類学者の間でも、アナーキストの間でも、私は時おり文明を完全否定するタイプの人々に遭遇する。彼らは現行の産業テクノロジーが資本主義特有の抑圧を生むと考えるだけでなく、それはどんな未来のテクノロジーについても同じことだと強弁する。それゆえ、人類が解放されるには石器時代に戻るしかない、と言うのだ。むろん、私たちの多くはテクノロジーに関してそこまで決定論的ではない。

 一方、資本主義が不可避だと主張するためには、技術革新に関して決定論的である必要がある。ネオリベの狙いが、資本主義以外の経済システムの可能性を誰も信じない世界をつくり上げることなら、必然的で救いのある未来への希望を抑圧するだけでは足りない。根本的に世界を変え得るようなあらゆる技術革新を否定しなければならない。ここに矛盾がある。資本主義の擁護者たちは「技術革新はもう起きない」とは言えない ―それでは資本主義が先進的ではないということになってしまう。そこで彼らは、テクノロジーは日々進歩していて、私たちは驚きに満ちた世界に生きていると主張するのだが、その“驚き”の内実とは、つつましい商品改良か(「最新のiPhone!」)、近々実現する発明のウワサか(「いよいよ空飛ぶ車が開発されるらしい」)、情報とイメージを弄ぶためのさらに凝った技術か、今以上にもったいぶった書類記入のプラットフォームのことでしかないときている。

 私はネオリベラル資本主義だろうがどんなシステムだろうが、こんな企てに成功するだろうとは思えない。まず、テクノロジーの進歩を先導しているフリをしながら、秘かにそれを抑え込むことに根本的な無理がある。アメリカはインフラの荒廃、地球温暖化に対する無策、そして中国が有人宇宙飛行プログラムを推進する中でそこから撤退するという象徴的な敗北などで、かなりマズイ印象を世界に与えている。第二に、変化を永久に抑え込むことはできない。ブレイクスルーは必ず起こる。不都合な発見をいつまでも抑圧し続けることはできない。世界のまだ官僚化の進んでいない地域 ―あるいは官僚が創造的な思考に対してさほど敵対的でない国― がゆっくりとだが確実にリソースを獲得し、アメリカとその同盟国が放棄した地点から歩み始めるだろう。そして、この場合はインターネットがコラボレーションと情報拡散のツールとなり、壁を打ち崩すのに一役買ってくれるかもしれない。ブレイクスルーはどこで起きるだろう?それは分からない。3Dプリンターがロボット工場の代わりとなるかもしれない。あるいは何か別のことかもしれない。しかし、それは必ず起こる。

******************

 ひとつだけ確実に言えることがある。それは現在のコーポレイト・キャピタリズム ―あるいは他のどんな資本主義のフレームワークの中でも起きないだろうということだ。火星にドームを建設したり、地球外の文明との交信を試みたりするためには、まず今とは別の経済システムを考え出す必要がある。新しいシステムもまた巨大な官僚システムにしかならないって?なぜ、そう決めつける?現存する官僚的構造を破壊することからしか、何も始まらない。そして、洗濯やキッチンの掃除をしてくれるロボットが発明されるためには、資本主義よりはるかに平等な富と権力の分配に基づいたシステムで置き換えなければならない ―他人に家事労働をさせるスーパー・リッチも、その家事を引き受けようとする貧困層も存在していない必要がある。そうなって初めて、テクノロジーは真に人間のニーズに則して方向づけられるだろう。そして、これこそがヘッジファンドの経営者やCEOの死手を振りほどかなければならない一番の理由ではないだろうか。私たちの夢を、そうした連中が作った牢獄であるスクリーンの中から自由にしよう。想像力を再び、人類の歴史を動かす実質的な力の座に返り咲かせるために。
(おわり)
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2016年05月28日

空飛ぶ車と右肩下がりの利益率について〜A〜 デビッド・グレーバー

Of Flying Cars and the Declining Rate of Profit
DAVID GRAEBER

 期待されたテクノロジーの爆発的発展 ―月面基地や、ロボット工場など―はなぜ予測通りに実現しなかったのか?二とおりの場合が考えられる。ひとつめは、私たちが考えていた技術革新のペースが現実的でなかった。その場合、なぜ多くの知識人がそれを現実的だと考えていたかを知る必要がある。反対に、私たちの期待が非現実的ではなかったとしたら、なぜ数多の信頼に足るアイデアや予測が実現しなかったかを知る必要がある。

 学者やアナリストはたいてい前者の説明を好む。そして原因を冷戦期の宇宙開発競争に求める。なぜ合衆国とソ連はあれほど有人宇宙飛行に固執したのだろう、と彼らは首を傾げてみせる。科学的調査の方法としては効率的とは言い難い。そして結果的に、人類の未来に対する非現実的な期待が広まることになった、と。

 アメリカもソ連も開拓者の国としての歴史があるからだろうか?かつて、一方は西部のフロンティアへ、他方はシベリアへと膨張していった。それゆえ、両者とも無限に拡大する未来、何もない広大な空間への入植という神話を共有している。それが二つの超大国の首脳たちの決断に影響を与えたのではないか?“スペース・エイジ”に突入した今、宇宙空間の征服は未来の覇権そのものである、と。もちろん、ありとあらゆる神話的思考が働いたのは疑いもないが、それと科学的プロジェクトのフィージビリティは何の関係も無いだろう。

 当時のSF的アイデアのいくつか(今となってはどれとは言えないが)は実現し得たはずだ。もっと前の世代は、SFで描かれたものが実現するのを実際に経験している。20世紀初頭にジュール・ヴェルヌやH.G.ウェルズを読んで育った世代は、1960年ごろには空飛ぶ機械や、宇宙船や、潜水艦や、ラジオやテレビがあると夢見ていただろう ― そして、それは現実になった。1900年に月旅行を夢想することが妥当なら、60年代にジェット・パックやロボット・メイドを夢見たことが非現実的だったとどうして言えるだろう?

 実は、そうした夢が語られている間にも、実現のための現実的条件は失われつつあったのだ。50年代、60年代においてすでに、技術革新のペースは20世紀前半に比べてスローダウンしていたと考えるに足る理由がある。最後のラッシュは電子レンジ(1954)、経口避妊薬(1957)、レーザー(1958)が矢継ぎ早に登場したころだ。それ以降は技術的発展と言ってもほとんど、既存のテクノロジーを巧みに組み合わせるか(例えば宇宙開発事業)、既にある技術を消費者向けに商品化するか(最も知られた例はテレビだろう。1926年に発明されているが、第二次大戦後になってやっと商品化された)でしかない。ところが、宇宙開発競争が驚異的な進歩を人々に印象付けていたこともあって、技術革新は制御不能の恐ろしいスピードに加速しているというのが、60年代の社会全般が抱いている印象だった。

 アルビン・トフラーの1970年のベストセラー『未来の衝撃』は、60年代の社会的問題はほぼすべて、技術革新のペースの増大に原因があると論じた。引きも切らない科学的ブレイクスルーの連続によって、日々の実存の基盤が変容し、アメリカ人はもやは「ふつうの生活」が何であるのか分からなくなってしまった。“家族”を見てみるといい。経口避妊薬だけではない、人工授精、試験官ベビー、精子や卵子ドナーといった技術への期待は、“母性”をも時代遅れにしてしまうだろう、と。

 人類はこの変化のペースに対して精神的な準備ができていなかった、とトフラーは言う。彼はこの現象を「加速的推進力」と呼んだ。その起源は産業革命にあり、1850年ごろには既に顕著であった。世界は変化しているだけでなく、大半の領域 ―人類の知識、人口、産業成長率、エネルギー消費― で指数関数的増大を示している。唯一のソリューションは、このプロセスをコントロールするための努力を始めることだ、とトフラーは論じた。新しいテクノロジーとその社会への影響を監視し、混乱や破壊を引き起こすと思われる技術を禁止し、進歩を社会的調和の方向へと導くための機関を設立する必要がある、と。

 トフラーの歴史的トレンドの分析はおおかた適確と言えるが、実はこの本が世に出た頃には「指数関数的」成長のほとんどは頭打ちになっていた。世界中で発表される科学論文の数は、1685年頃から15年で倍になるペースで増え続けていたが、それが横ばい状態になり始めたのがちょうど1970年頃なのである。書物や特許の発行数に関しても同様のことが言える。

 “加速的”という比喩はとくに残念である。人類の歴史のほとんどの期間、ヒトが移動する速度は時速10キロを大きく超えることはなかった。それが1900年ごろには時速160キロほどになり、その後70年間は確かに指数関数的に増大するように見えた。トフラーがこの本を出した1970年ごろ、人間が最も速く空間を移動した記録はだいたい時速4万キロあたりで、これは1969年にアポロ10号のクルーが達成したものだ。たしかにこの指数関数的増加率なら、数十年後には人類は他の恒星系に到達していると考えるのは理にかなっているように見えた。

 しかし1970年以降、加速は起こらなかった。今でも人類の最速記録はアポロ10号の乗組員たちが保持しているのである。たしかに1969年に初飛行したコンコルドは民間の旅客機として時速2200キロという最高速度を記録した。先行するソ連のツポレフ144はそれをさらに上回る時速2500キロを記録していた。しかし、その後、実用的な航空機の速度は増大していないばかりか、ツポレフ144が中止となり、コンコルドも放棄されたため、かえって減少している。

 もっとも、こうした事実がトフラー自身のキャリアを減速させることはなかった。彼は自身の分析を焼き直しながら華々しい宣言を続けた。1980年の『第三の波』はエルネスト・マンデルの「三度目の技術革命」のパクリだったが、マンデルがこの変化の中に資本主義の終焉を見ていたのに対し、トフラーは資本主義は永遠だと考えていた。1990年には、トフラーは共和党議員ニュート・ギングリッチの知的メンターとなっていた。ギングリッチの1994年の公約「アメリカとの契約」は、合衆国が時代遅れの物質的、工業的マインドセットから、新しい自由市場と情報技術もたらす「第三の波」文明の時代へ移行すべきだという考えに触発されたものだと主張した。

 この結びつきはいろんな意味で皮肉なものだ。トフラーの業績の一つとして、米国議会技術評価局OTAの発足を促したことが挙げられるだろうが、ギングリッチが1995年に下院で最初にやったことの一つが、OTAを政府の無駄遣いとしてやり玉に挙げ、予算を打ち切ることだった。しかし、ここに矛盾はない。この頃にはすでにトフラーは公に訴えることで政策に影響を与えるという路線を長らく放棄しており、主にCEOや企業シンクタンク向けのセミナーで生計を立てるようになっていた。彼の洞察はプライベタイズ(私有化)されたのである。

 ギングリッチは「保守派未来学者」を自ら名乗っていた。これは語義矛盾に思えるが、トフラーの“未来学”のコンセプトはそもそも進歩的なものではなかった。彼にとって進歩とはいつも解決しなければならない問題として立ち現れるものだったのだから。

 トフラーは19世紀の理論家オーギュスト・コントの軽量版と理解するのが妥当かもしれない。コントは、人類が科学技術の容赦ない発展がもたらす新しい時代 ―この場合には工業時代― の端緒に立っており、彼の時代の社会的変動はそれに対応できないことから起きていると考えた。それ以前の封建制社会の中からは、カトリックの神学体系が形成された。この体系の中で示される人類の宇宙の中での位置は、当時の社会システムのあり方にぴったりだった。さらに教会という制度的構造を通してその考えは広められ、強制され、結果的にすべての人々が存在の意味と所属の喜びを感じられるような仕組みになっていた。工業時代もまた独自の価値の体系を生んだ ―科学だ。だが、科学者たちはカトリックの教会組織に匹敵するものを築き上げることができなかった。そこでコントは新しい学の創出を提唱し、それを“ソシオロジー(社会学)”と名付けた。そしてソシオロジストが新しい社会的宗教における司祭となり、人々が秩序と、共同体的価値と、職業的熟練と、家族の価値を愛するよう導くべきだと結論付けた。トフラーにはこれほどの野心はなかった。彼は“未来学者”が司祭の役割をするべきなどとは考えなかった。

 ギングリッチには二人目の“導師(グル)”がいる。リバタリアン神学者のジョージ・ギルダーだ。ギルダーもトフラー同様、テクノロジーによる社会の変容という考えに執り憑かれていたが、ギルダーのほうが妙な意味で楽観的だったと言える。彼はマンデルの第三の技術革命のラディカルなバージョンを掲げ、コンピューターの出現によって私たちは“物質の超克”に立ち会うのだと主張した。以前の工業社会は物質的で、そこでは物理的労働から価値が創出された。来たるべき情報社会においては企業家の思考から直接、価値が創出される; まるで世界が神の意志によって無から生まれたように。まるで、純粋なサプライサイド経済学においては連邦準備銀行によって無から貨幣が生じ、価値を創出する資本家の手に直接与えられるように。ギルダーは、サプライサイド経済学に基づいた政策によって、宇宙開発のような時代遅れの無用の長物ではなく、より実りある情報科学や医療分野へ資金が流れることになるだろう、と結論付けた。

 しかし、ロケットやロボットではなくレーザープリンターやCTスキャンに結実する研究へと投資の流れを変える、意識的もしくは半意識的な動きは、トフラーの『未来の衝撃』(1970)やギルダーの『富と貧困』(1981)よりはるか以前に始まっていたと考えられる。彼らの本がもてはやされたのは、その論旨 ―これまでどおりの技術的発展のパターンは社会変動をもたらすため、既存の権威の構造を維持するためにはそれを特定の方向に導かなければならない― という主張が、権力の座にある者の考えに共鳴したからである。政治家や産業界のトップはしばらく前からそのような懸念を抱いていた。

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 産業資本主義は極めて急速な科学の発展と技術革新をもたらした ― それは、人類史において前例を見ないものだった。資本主義の最大の批判者であったカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスですら、その「生産力」の爆発的増大を称揚した。マルクスとエンゲルスはさらに、工業生産の手段を不断に革新し続けなくてはいけないことが資本主義の解体につながるだろうと考えていた。マルクスは、特定の技術的な理由により、価値は ―そして、それゆえ利益も― 人間の労働からしか抽出し得ないと考えていた。競争により工場主たちは生産ラインを機械化し、労働コストを抑えようとするだろう。これは企業にとって短期的には利益を生むが、機械化の全般的な効果は利益率を低下させるだろう、と。

 150年間、経済学者たちはこれが真実かどうか議論してきた。もし真実だとすれば、60年代に事業家たちが、人々が期待していたようなロボット工場に研究費を費やすことを止めて、その代わり工場を中国や南の国々のローテクな労働集約的施設に移転したことは、まことに理にかなっていたと言える。

 すでに指摘したように、生産プロセス ―工場そのもの― の技術革新のペースもまた50年代、60年代においては落ちてきていたと考えるに足る理由がある。しかし、アメリカとソ連の競争の副作用によって技術革新が加速しているように見せかけられていた。壮大な宇宙開発競争が繰り広げられていただけではなく、アメリカの工業プランナーたちは既存のテクノロジーを一般消費者向けに商品化することに血道を上げていた。これは繁栄への期待と進歩への信頼に満ちた楽観的なムードをつくり上げ、労働者が政治に魅かれないようにするための牽制として機能した。

 こうした動きはソ連のイニシアチブに対する反応だったのだが、この辺りの歴史はアメリカ人の記憶から抜け落ちている。冷戦の終わりごろには、一般の人にとってのソ連のイメージは恐るべきライバル国から無残な失敗国家に転落していた ― うまくいかない社会の見本だ。実は50年代までアメリカ上層部は、ソ連の社会システムのほうが優秀なのだと考えていた。彼らは、1930年代、合衆国が大恐慌の泥沼にはまり込んでいた頃、ソ連が年10パーセントから20パーセントというほとんど前代未聞の経済成長率を維持していたことを忘れてはいかなかったのだ ― そして追い打ちをかけるようにソ連の戦車隊はナチス・ドイツを撃破し、1957年にはスプートニクの打ち上げに成功し、1961年にはボストーク1号で初の有人宇宙飛行を成功させた。

 アポロの月着陸はソビエト共産主義の成果だと言われることがある。ソ連の政治局が宇宙開発に野心を燃やしていなかったら、アメリカはこのような大事業を思いつきもしなかっただろうというわけだ。私たちは旧ソ連の政治局と言うと頭の固い灰色の服を来た官僚たちを思い描きがちだが、彼らは壮大な夢を夢見た官僚たちなのだ。世界革命という夢はその端緒に過ぎない。もっとも、そうした夢の多く ―大河の流路を変えたりといった― は環境的にも社会的にも破壊的としか言えないものだったし、ヨセフ・スターリンの100階建ての宮殿とか20階建のレーニンの彫像とか、計画段階で消え去ったものも数え切れない。

 宇宙プロジェクトでの成功の後、こうした計画のうちで実現したものはほとんどないが、ソビエト首脳部は絶えず新たな計画を発案し続けていた。80年代に至っても、アメリカが最後の国家的大事業スターウォーズ計画を推進しようとしているのを横目に、ソ連はテクノロジーの創造的な使用によって世界を変えようと目論んでいた。ロシア以外の国でこうした計画を覚えている者はほとんどいないだろうが、巨大なリソースをつぎ込んで推進されていたのだ。もう一つ特記すべきは、スターウォーズ計画がただソ連を撃沈するためだけのものだったのに対して、ソ連の計画していた国家的事業の多くは軍事とは関係なかった。例を挙げれば、湖や海でスピルリナと呼ばれる食用微生物を栽培し、世界中の飢餓を解消する試みとか、軌道上に巨大な太陽光発電パネルを何百と打ち上げ、ビームで電気を地球に送信し、世界的なエネルギー問題を解決するとかいったものだ。

 宇宙開発競争に勝利したとされるアメリカのほうは、1968年以降、誰もこの競争に本気で取り組まなくなった。その結果、宇宙が最後のフロンティアであるという神話だけが残ったまま、実際の研究開発はもう火星基地やロボット工場の実現とは全く別の方向に向かうようになった。

 ここでお決まりの台詞は、こうしたことはすべて市場の勝利の結果だ、というものだ。アポロ計画は“大きな政府”の計画であり、官僚主導の国家事業だったという意味でソビエト的なものだった。そして、ソ連の脅威がもはや問題で無くなると、技術開発は資本主義本来の脱中心的で自由市場の要求に沿った路線 ―例えば民間資本によるパーソナルコンピューターのようなマーケッタブルな製品の研究など― に戻った、というわけだ。トフラーやギルダーが70年代から80年代初頭に提唱した路線がこれである。

 しかし現実には、アメリカが政府主導の技術開発計画を放棄したことはなかった。それらは主に軍事の領域に移っただけだ。スターウォーズ計画のようなソビエト的スケールの計画だけではない。様々な兵器開発、通信及び監視技術やそれに類するセキュリティー分野のテクノロジーである。ある意味、アメリカではいつだってそうだった。かつての宇宙開発の予算など、ミサイル開発につぎ込まれた莫大な金額に比べれば微々たるものだ。それが70年代に入る頃には、基礎研究までもが軍事的プライオリティーに基づいて行われるようになった。いまだにロボット工場が存在しない理由の一つは、ロボット工学の研究予算のおおよそ95パーセントをコントロールするペンタゴンが、製紙工場を自動化するより無人爆撃機ドローンを開発することに関心があるからだ。

 さらに情報技術と医療分野への研究開発のシフトは、とりたてて消費者市場の要請に沿うような方向転換ではなく、米国の世界的な階級闘争への完全勝利とソ連の技術的衰退という現実に全面的に適応した動きであったと言うこともできるだろう ― それは海外における米軍事力の圧倒的な優勢の実現と、国内における社会運動の壊滅と時を同じくして起こっている。

 実際に出現したテクノロジーはと言えば、主に監視、労働管理、そして社会的コントロールに資するものばかりだ。コンピューターはある種の自由の空間を実現した、とはよく言われることだが、アビー・ホフマンが想像したような労働の無いユートピアを実現するどころか、その正反対の効果を生むような方法で使われている。それは資本のファイナンシャライゼーションを可能にした結果、労働者を救いの無い負債へと追い込んだ。同時に、雇用者側に“フレキシブル”な就労システムを構築する手段を提供し、その結果、伝統的な雇用保障は破壊され、ほとんどすべての人において労働時間は増加した。工場労働が海外に委託されたことに加え、この新たな就労システムの出現によって組合運動は根絶やしにされ、あらゆる効果的な労働者階級の闘争の可能性は摘まれてしまった。

 一方、医学と生命科学の分野に前例を見ないほど大規模な投資が行われたにもかかわらず、癌の治療法も風邪の治療法もまだ無い。医療分野での最も劇的な“ブレイクスルー”と言えば、プロザック、ゾロフト、リタリンといった薬 ― 新たな労働環境の要請が私たちの精神を完全に、機能しなくなるほど狂わせてしまうのを防ぐためにテイラーメードされたものだ。

 このような結果を鑑みつつ、ネオリベラリズムの墓碑銘はどんなものになるか想像してみよう。後世の歴史家たちは、それはつねに政治的要請を経済的要請にシステマティックに優先させる資本主義の一形態だ、と結論付けるのではないだろうか。資本主義を唯一可能な経済システムに見せかけるための努力と、資本主義を長期的にバイアブルな経済システムに変容させる努力の間で選択を迫られた時、ネオリベラリズムは必ず前者を選ぶ。どう考えても、雇用保障を破壊しながら労働時間を増加させることで、より生産的な(より創造的であったり忠実であったりすることはもちろん)労働力は得られないだろう。結果は恐らく、経済学の言い方に倣えば“マイナス”となる。80〜90年代に世界中のほとんどの国で成長率が低下したことがこの印象を裏付けている。

 しかし、ネオリベラリズムは労働者の非政治化と未来のあり方を過度に固定することに関しては効果的であった。経済的に言えば、軍、警察、民間警備会社などの増大/増加は重荷でしかない。実のところ、資本主義のイデオロギー的勝利を確実にするために創られたこれらの装置のデッドウェイトが、資本主義を沈没させる可能性すらある。だが要は、現在の世界とは違う、もっと必然的で救いのある世界のあり方を求める意識を抹殺するのがネオリベの企ての重要な要素なのは明らかだろう。
(つづく)
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