2011年06月18日

“地上に太陽を”

核融合炉は安全で、完全無欠のエネルギー源だという主張がある。本当にそうだろうか?これまた実用化のめどが立っていない技術を前提とした“信仰”であるように思える。

たしかに核融合炉はウランやプルトニウムを必要としない。重水素とトリチウムを核融合させてヘリウムにするわけだから。
しかし、トリチウムは放射性物質である。「厳重に取り扱えば大丈夫」と言う。だが、人間の運用にはエラーが起こりうるという現実を考慮しないこうした楽観論が致命的な結果をもたらすということは、今回の福島原発の事故が如実に語っていることである。

核融合炉は高速中性子線を発する。この放射線は人を殺す。よって、放射線を外に出さないためにコンクリートの構造物などで覆う必要がある。被曝した物体は放射化するので、こうした資材の処分は放射性廃棄物と同様の問題を抱えることになる(放射化しにくい素材を使えばクリアーできるとする主張もあるが、中性子線を浴びるすべての資材をそうした素材で設えることが現実的に(コスト面も含めて)可能かどうかという議論は聞いたことがない)。それ以前に、平常運転時における施設内の放射線量は核分裂炉よりはるかに高いし、今回のような「想定外」の自然災害が起こって被覆構造物が損壊すれば、中性子は周囲の環境に放出される。

“地上の太陽”とも呼ばれる核融合炉。
「核融合炉は太陽と同じ。だから安全」という無邪気な主張も時おり見受けるが、太陽は生命にとって“安全”な存在などでは全くない。大気圏というバッファなしで生物が太陽を浴びれば死んでしまう。船外活動をする宇宙飛行士が着るものものしい宇宙服は、何よりも放射線防護服なのだ。

そもそも生命は大気によって太陽から“守られる”ことによって初めて可能になった。そして25〜20億年前、地球上に藻類が出現し、光合成によって水や大気の中に酸素が大量に放出されるようになり、酸素を消費する動物の出現を可能にした。人間を含むあらゆる生き物は地球の表面を覆う厚さわずか数キロの層の中でしか生存できない。生命現象はシャボン玉の薄い膜の上に浮かぶ模様のようなものなのだ。剥き出しの太陽から守ってくれるこの脆い皮膜の中に、わざわざ人工の“太陽”をつくろうというのは、あまりに無理、無謀、そして無駄な企てに思われる。

地上に太陽は必要ない。天空にあるだけで十分だ。
全人類はおろか、地球上の全生物の生命活動は、太陽をエネルギー源としている。われわれは、植物が光合成を通じて化学的に定着させた太陽エネルギーである炭水化物やタンパク質を直接的、間接的に食料として摂取して生きている。
さらには、人類に恩恵をもたらす一方で、ときに大きな脅威となる気象現象も、太陽エネルギーによって引き起こされた大気と水の地球規模の対流現象である。つまり、風力も水力も潮力も、形を変えた太陽エネルギーに他ならない。

膨大な富を投じて“地上に太陽を”つくるより、いまだ十分に意識的に活用されていない天空の太陽エネルギーを効果的に利用する技術を洗練させていくほうが、はるかに理にかなっていることは“日”を見るより明らかだ。






テクノロジーの思考は物事を均質化・単純化しがちだ。エネルギーの問題は生命、生態系、社会、経済、精神を包みこむ多角的、複眼的なとらえ方が必須だと思う。
その意味で『すばる』6、7月号掲載の中沢新一『日本の大転換(上)(下)』は必読の論考。
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posted by snail trail at 15:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

狂信

たしかポール・ヴィリリオだったと思う。

テクノロジーとは、現実的に計測可能な―すなわち限定的な―タイムスパンの中での実証可能なソリューションを示すものだ。
原発には核廃棄物の問題がある。これは「現実的なタイムスパン」の中での「計測可能なソリューション」を持っていない。つまり、原子力という技術は非限定的な“未来”においてなんらかの解決がなされるであろうという信念に基づいて進められている。この思考の構造はテクノロジーのそれではなく、“黙示録的信仰”のものである。すなわち、原発こそ字義的な意味で“宗教的”なのだ。

人には信仰の自由がある。しかし、他の人々の生命や生活の安全を犠牲にしてまで自分の信仰を主張するとしたら、それを「狂信」と呼んで差し障りないだろう。

posted by snail trail at 14:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月10日

大丈夫

こないだ会った人に「私の母親は広島出身で、原爆が落ちたとき市内から6キロのところにいたが何ともなかった。だから大丈夫。それに、広島も長崎もペンペングサも生えないと言われてたけど、すぐに人が住むようになった。だから大丈夫」と言われて、ちょっと頭がクラクラした。

どういう意味で「大丈夫」なんだ?原爆でたくさんの人が死んでるじゃない?広島も長崎も焼け野原になったじゃない?たくさんの人が被爆してるじゃない?被爆者認定受けた人も受けてない人も、膨大な人が放射能障害で苦しんできたじゃない?全然「大丈夫」じゃなかったじゃない?たまたま自分の周りの人間に被害がなかっただけじゃない?

「冷戦時代は核実験を乱発してたから、今より放射性物質が飛んでいた。それでも生きてこられたんだがら大丈夫」とか、言う人もいるよねぇ。
これだって、核実験で被曝した人は世界中でたくさんいるじゃない?第五福竜丸事件を引き合いに出すまでもなく。人間だけじゃない、他の生物のことまで考えれば膨大な生命が犠牲になってるじゃない?全然「大丈夫」じゃなかったじゃない?たまたま自分の周りの人間に被害がなかっただけじゃない?

考えてみれば、私たちの周りはもともと、この手の「大丈夫」で満ちている。つまり、たまたま自分と周囲の人間に影響がなかったというだけの「大丈夫」だらけ。
公害だって環境破壊だって農薬汚染だって、出るところには多大な影響が出ている。全然「大丈夫」じゃない。ただ、たまたま偶然にも自分の狭い視野に映る世界が害を被らなかっただけ。

そして、経済発展というやつは、こういう利己的な「大丈夫」を土台にして築かれている。「大丈夫じゃなかった人々」は切り捨てられ、視界から遠ざけられ、忘れ去られる。

世界はいつだって「大丈夫」じゃなかった。社会はつねに自分自身との戦争状態にある。平穏な日常は無視され忘れ去られた人々の苦しみの上につくられている。

だから、何としても「大丈夫」な世界の側に居たいという人の気持は分かる。「大丈夫じゃない」世界を遠ざけておきたいというあがく人の気持は。

でも、心してほしい。今、切り捨てられ忘れ去られようとしているのはあなたであり、私なのだ。
posted by snail trail at 13:46| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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