2011年07月28日

半農半ヘタレッX リローデッド

最近は長野に借りた市民農園で畑をやってる。
去年まで埼玉でやってたんだが、長野でやるようになって、新たな喜びに目覚めたというか…
とにかく静かなの。山ん中の村なんで。車の音がしない。
たまにトラクターとか刈払機の音が聞こえてくるくらい。
もちろん、音がないわけではない。鳥や虫の鳴き声が聞こえる。草を刈る、あるいは土を掘り返す自分の手元の音が聞こえる。
そういう環境だと、草とか虫とか、本当に小さな自然に対する注意力が立ち上がってくる。
夜は満天の星空に名も知らぬ鳥や獣、カエルや虫の声。ひんやりと清冽な夜気。
自分でも知らなかった自然に対する微細な感覚が開発されていくのを感じる。それはとてもめくるめくようなセンセーションだ。

埼玉の畑は県道脇だったので、交通量は多くないとは言っても側を車が通っていた。
化石燃料を燃やす内燃機関の音(つまりエンジン音)というのは、とてつもなく“粗大”な刺激なんだよね。
そして“粗大”な刺激に満ちた環境にいながら“微細”な感覚に気づくことは難しい。少なくとも僕はこれまで十分にそれをできてなかったかもしれない。
人工的な機械の音というのは絶対に神経を興奮させる。そういうものがつねに身の周りに満ちている環境にいると自覚できないだろうが、みんな麻痺してるだけだ。
よく研がれた平鎌でザッ、ザッと雑草を手刈りするのと、刈払機でブーンって刈っちゃうのでは同じ草刈りでも座禅とセックスくらいかけ離れた体験だ。ちなみに草刈りでも座禅でもやってみなければ分かんないことというのがある。童貞にセックスが分からんように。

埼玉は東京に近い。都市型の生活が手の届くところにある。
都市に生きるということは“市場”に依拠して生きるということだ。“市場”っていうのは、“粗大”な刺激を絶え間なく人々に与え続けることでリアリティーを保ち続けているものだ。
その中にどっぷり浸かってる人にとってそれはリアリティーだろうけど、それはいわばエンジン音の全くしない環境を経験したことがない人々だ。刺激に無意識に反応するのが常態になっていて、市場が流通させている“記号”(=商品)を“リアル”だと思っていちいち反応している。そうした“粗大”な感覚に馴らされた結果、自然や身体に対する感覚は著しく鈍磨してしまう。

ボードリヤールじゃないけど、市場は商品という記号で構成された仮想現実なのである。だから、その“外部”を体験したことのない人に農の話をしても、彼らはたいていそれを「田舎暮らし」という商品=記号としか受け取らない。それゆえ、単に農業体験や田舎体験をするだけではダメなのだ。彼らは決して“市場”の外の世界というものの実在を信じない。そして世界を変えるためには経済や流通の変革が先行するのだという倒錯した観念を持つようになる。それも必要かもしれないが、まずは“目覚める”ことがなければ話にならない。

『マトリックス』は好みの映画ではないんだが、あの仮想現実の寓意、っていうのはすごくリアルだなぁ、って今さらながら思っている。自由で刺激的な都市生活は実は仮想現実で、実際は生きる実感を完全に遮断され、代謝エネルギーを吸い取られるだけの「発電機」だっていう… それって、市場経済そのものじゃん?

映画の中で主人公が赤と青のピルを提示されて、青を飲めばこのまま仮想現実の中でぬくぬくと生きていける、赤を飲めば(恐ろしく醜悪な)本当の現実に目覚めることになる、という決断を迫られるシーンがある。3月11日以降、僕らは同じ決断を迫られながら生きているのではないだろうか。本当は長野だろうが埼玉だろうが関係ない。僕の身体感覚が少しずつ変わってきているのは、実はあのとき赤いピルを飲んでしまったからなのかもしれない、などと妄想している。
posted by snail trail at 10:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月15日

宿題をしなくても人は生きていける

しばらく前、シンガーソングライターのえびはらよしえさんとお話しする機会がありました。
よしえさんの息子さんは中学生のとき「俺は宿題をやらない」と言って学校で出される宿題をやるのをやめてしまったそうです。理由は「役に立つと思えないから」とか、そんな感じでした。で、毎日バッシューだけ持って学校へ行き、部活だけ出ていたとか。

息子にそう言われて「そっか、そうだよねー」と納得し、学校に「好きにさせてやってください」と言いに行ったというよしえさんもスゴイですが、14歳かそこらで「俺は宿題をやらない」と宣言したという息子さんに、正直、僕はシビレました。弟子にしてもらいたいくらいw

ってか、14歳くらいって、本当はそういうもんだよね。だからこそターニングポイントでもある。
社会は思春期の不安や欲望を利用して、子どもから自尊心を奪い、恐怖を植え付け、思考停止させ、馴致された「使える人間」を作り上げる。それが学校教育。どうでもいい宿題出したり、形式だけの努力を強いる受験をさせたり、全部そのための装置です。その結果、原発が爆発して毎日死の灰が降り注いでも真面目に「宿題」をやり続ける国民ができ上がりました。パチパチパチ! 日本の教育はスゲー優秀じゃないですか!www

宿題ってのは典型的な「人に言われたこと」。そして「人に言われたこと」を律儀にやり続けた結果、「人に言われたこと」さえやってればいいと考える人ばっかりになってるのね、今の日本人って。自分がやりたいこと、やるべきだと思っていることを実行に移そうとする人があまりに少ない。もちろん、それは縛られてる、ってこともあるんだろうけど、生きることに対する怠惰の結果でもある。

人は「宿題」なんてやらなくても生きていける。
「人に言われたこと」ではなく「自分で考え、決めたこと」をするために人生の時間を使うべきだ。
と、勇気ある中学生の少年の逸話が僕に悟らせてくれました。

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posted by snail trail at 12:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月12日

詩人のなりそこね

ちょっと前に精神科医の香山リカ氏の文章がネット上で波紋を呼んでいました。

http://diamond.jp/articles/-/12955

京都大学の小出裕章助教授を脱原発のヒーローに祭り上げたのは、ひきこもりやニートなど現実社会に適応できないネットおたくたちの願望とルサンチマンであり、その適応障害と向き合うべきだ。という…

これに関して僕のツイート。

精神科医が患者を適応させようとする“現実”がことごとく出来の悪い“虚構”(ヴァーチャル)であったことが明らかになったのが3.11だ。香山リカの論理から決定的に抜け落ちているのは、原発震災が起きてしまったという“現実”だ。“適応障害”はどっち?
7/2

精神科医の仕事はいわば“去勢”を完成することだから、香山リカは職業的な限界に忠実だっただけともいえる。でも、「ニート」や「ひきこもり」という分かりやすい〈記号〉を引き合いに出すのは明らかにマジョリティーに対する媚だ。媚びる女は品性を落とす。
7/4

TL上ではかなり感情的な香山バッシングが燃え上がり、その後氏は謝罪文を掲載しました。

http://diamond.jp/articles/-/13010

僕ももちろん、あの文章はヒドイなとは思いましたが、考えてみればそもそも精神科医というのは、人間の心が本来持っている豊穣で制御不能な能産性を刈り込んで矯正し、“制度”に適応させるのがシゴトなわけです。精神分析で言うところの〈去勢〉を完成させるわけですね。だからその意味では、彼女は精神科医としての職務に忠実だっただけです。ちなみに「社会に適応する」とはつまるところ、「社会が管理しやすい人間になる」ってことです。結局のところ社会で「使える人間」であるということは、手のかからない家畜であるということです。

でも、彼女は自分の思考から「原発震災が起きている」という〈現実〉が完全にぬけ落ちてしまっているということに意識的だったのでしょうか?どうも自分で気づいてなかった感じがするんですよね。その後、掲載された謝罪文もなんだか要領を得ないもので、あまりに激しいリアクションが来ちゃったんで途惑ってるって感じでした。だとしたら、「乖離」や「適応障害」を起こしているのは残念ながら精神科医のほうだと言わざるを得ません。

そう思うと同情の余地はなくもない。311以降、それまで適応すべきものだと思われていた〈現実〉が、トンデモなくデタラメなものだったことが白日の下にさらされ続けているわけです。精神科医でなくとも足下をすくわれた気分になるのは当然です。辺見庸氏のことばを使えば、「価値観の底が抜け」ちゃったわけです。

岸田秀が「精神科医(心理学者だったかな?)は詩人のなりそこねだ」という意味のことを言っていたのを思い出します。例えば香山氏もそうだし、名越康文氏とか、非常に「詩人」的素養の、繊細な人たちだと僕は感じます。でも彼らはその“繊細さ”をありのまま表出する道を選ばず、知の言葉に翻訳し、対象化する道を選んだ。そこに“精神科医”の立ち位置のあいまいさがあります。彼らは非“規範”的な人々の心に寄り添うように見えて、実は“規範”の側にいる。

今回の原発震災でいわゆる“まっとう”な人がいかにどうしようもないか、“正常”とされていることがいかに狂っているかが、すべて、情け容赦なく明らかになってしまいました。
それは心の奥底では「詩人のなりそこね」でありながら、“正常”や“まっとう”に加担するサイドに片足をつっこんでいる“精神科医”のアイデンティティーを崩壊させる事件です。

香山氏の論を読むと、思考停止度が高くなるほど社会適応度が高い、という、しょーもない現実に彼女が気づいていないとは考えられません。謝罪文を読むと彼女自身は脱原発を支持しているようです。

いただけないのは彼女が「ひきこもり」や「ニート」といった、いわば“公認された落ちこぼれ”をスケープゴートにすることで“精神科医”というステータスを守ろうとしたことです。これはちょっとえげつない、権力的な振る舞いだと思います。香山氏には、制度の手先として去勢を執行する“精神科医”ではなく、「詩人のなりそこね」としての心の代弁者であってほしかったと思う。僕が精神科医のことばに興味を持つのは、それが逸脱した心に表現を与えてくれることがあるからで、矯正官のことばに興味はない。

“それでも原発動かすしかない”とか言う人たちの病理を分析している精神科医はいるんでしょうか?
それともメディアと同じで精神科医もそういうことができない構造の中に組み込まれているものなんだろうか?
posted by snail trail at 19:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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