2011年08月22日

でも・DEMO…

こないだ、about団塊の世代がメインの勉強会で原発の話をしてきた。シロウト講師として。
侃々諤々の議論になるかと思いきや、ほとんど反論は出なかった。
公の場で意見を口に出さないのが日本人なのかもしれないけど。

終わってからの飲み会で唯一、面と向かって意見を言ってきたのは、某大手ゼネコンの重役さんだった。
「今日の話は情報が一方的すぎるから、もっと推進派のロジックやテクノロジーを勉強した上で言ってほしい」と。
実際に原発関連の事業にに深く関ってきた人で、いわば理系のエリート。
でも、話してみると、311以降、その人自身、毎日悩み続けているという。

僕は以前のエントリーでも紹介した、原子力は現実的なタイムスパンの中での計測可能なソリューションを持たない(放射性廃棄物の問題ね)から、そもそもエンジニアリングではなくて“信仰”だ、という話をぶつけてみた。http://snailtrail.seesaa.net/article/210506260.html?1313983810

するとその人は「うーん…」と言う。否定はできない、と。
でも…」と、その人は言う。
へ?

でも”はないでしょ?原発がエンジニアリングではないことを認めちゃったら、その先“でも…”はないじゃない、ふつう。
そこで“でも”というのはあまりに理不尽でありわがままでありチャイルディッシュな主張でしょ?

彼は非常に誠実な人で、僕は勉強会のメンバーの中ではとても信頼している。文系の大学教員や出版関係者もいるのだが、そういう人のほうが妙に議論がスレていてやりにくかったりする。
ゼネコンの重役氏が“でも…”と言うのは、彼がこれまでの人生を通して原発推進と抜き差しならないほど深く関ってきてしまったことからきているのだろう。いわば、自分のこれまでの人生をそう簡単には否定できないという、ある意味、重い“でも…”だ。

ここでハナシは変わるが、農業研修で知り合った若い友人が鳥取で自給をベースにした新しいタイプのコミューンづくりを志している。彼は坂口恭平氏の『新政府』アクションに共感し、九州まで会いに行った。そこで「君のやろうとしてる事は既に何人もの先人が試みてきたはず。でもそれが広まってないのはなぜか考えろ。もう既に実践している先人を尋ね、学べ。」と説教されたそうな。僕はその場にいたわけじゃないし、坂口氏のニュアンスもよく分からないけど、まあ、言葉だけ見れば「?」って感じがした。

「広まってない」っていうのは正しい認識だろうか?僕みたいな業界周縁のスキマ産業で口に糊してる人間でさえ数年前から農に向かってる。書店には田舎暮らしの本が並んでる。そんなものは都会人のファンタジーとしての“商品”に過ぎないかもしれないが、とりもなおさず“商品”にさえなってるのだ。
例えば、ロックやストリートカルチャーが“商品”として流通してるのは、それらが資本主義に取り込まれたからか?一面ではそうだろう。でも、市場経済がそれらを無視できなくなったからでもある。それと同じことが農でも起こってると言えるんじゃないだろうか?

“農”や“自給”の話をすると、ファーストハンドな農業体験を持たない人たちからは必ず「でも…」って言葉が出る。“でも”経済的に成り立たないだろう、とか、“でも”社会的に広まらない要因が…、とか、ね。
これは原発しがみつき派の“でも”とそう変わらないように僕には思えてならない。そういう人たちは農的生活、自給的生活の可能性/重要性を認めてはいる。でも、結局のところ「自分にはできない」と感じているのだろう。そこを経済的に成立しないとか、社会的に認知されないといった問題にすり替えているように思える。

また、農が見直されるとしたらそれは、いわゆる“カリスマ農家”を特権的な“実践”として崇め、学ぶ対象とするのではなく、個々の生活の中で、市場経済ではなく自然の“贈与のサイクル”に属する営みがあることに触れ、そういうものに対する気づきを育んでいくことに重点が置かれるべきだ。そうやって市場経済とは別のリアリティーに目覚めていくプロセスこそ重要だと思う。

人々がイメージする“アクション”は実は“快楽主義”的すぎる。ドラマチックな逆転(revolution は“回転”の意味)や、華々しい英雄的創造を志向するのは実はひどくズレたことなのではないか。必要なのはひとりひとりが小さな勇気を持って、ちょっとだけ“逸脱”してみること。そしてその経験から快楽を貪ろうとするのではなく、自発的な喜びと気づきを見出すことだ。

「広まらない」としたらそれは、疑問を持ち、逸脱を志向する若者に、年長者が分かった風な説教するからというのもあるかもしれない。
説教は若い世代の疑問に対し、素直に「分からないから一緒に考えよう」と言えないオトナがするものだと思う。
自戒を含めて…
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2011年08月13日

カリズマイのカイラク

長野大町のクラインガルテン(市民農園)のラウベ(小屋)に長期滞在で生活ができるように荷物を運び込んできた。
住民登録は私の両親の家(高濃度汚染地区の松戸!)に置いといて、生活の拠点は長野美麻に移す。
大町市近辺は自然放射線量が高い。友人のuniversedrops氏(http://universedrops.blogspot.com/)に計測してもらったら0.13μSあった。今住んでる埼玉県の小川町が0.11程度だから、まあ、そういう意味ではあんまり変わらないかもしれない。(自然放射線は外部被曝の要因だから、この程度の数値ならあまり心配していない)

ラウベは基本的に休憩小屋なので、実に小ぢんまりしているというか、狭い。でも、冷蔵庫、食器棚、洗濯機などの必需品の大物を運び入れてみたら、意外とスッキリ納まってくれた。そんなわけで、妻も僕もなにげにご機嫌だ。

小さな家の前に小さな畑があり、周りはゆったりとした自然と静寂に囲まれている。バックドロップは北アルプスの山々。
やば…
もちろん、ここは仮住いだ。でも、そんなときに限って、人は理想的な環境というものに巡り遭ってしまったりする。
ここで過ごす日々は最高に楽しいものになるだろうという予感がある。そして、それは限りある日々だからこそ、かけがえのないものになるだろう。

終の棲家、を人は求める。
とくに女性は、家や生活のディテールへの執着が大きいのではないかな。
でも、終の棲家、とはすなわち、死に場所である。少なくとも男にとっては。
いつかはその場所を見つけなければならないだろう。でも正直、まだ僕には見えてこない。

生きている間は変化は免れない。
だから僕はカリズマイの快楽を全面的に肯定する。
だって、所詮この生だってカリズマイ。カルマの大河の中に現れては消える取るに足らない渦のようなものなのだから。
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2011年08月07日

喜びと快楽


5月の連休明けくらいから動物性食品をほとんど食っていない。肉はもちろん、卵や乳製品も基本的に辞めた。
なんでって?危ないからだ。
何がって?放射能だよ〜ん!!!\(▽ ̄\( ̄▽ ̄)/ ̄▽)/

うちは嫁さんがマクロビ/雑穀食&自然療法の人なんで(大谷ゆみこ&東城百合子フリーク)、結婚して以来、家では穀菜食メインだったのね。俺は魚も肉も卵も大好きなんだけど、まあ、年齢的に言ってぼちぼち控えたほうがいいのは間違いないので、結婚を機に節制するのもいっか、くらいに思ってた。ブッダに倣ったわけじゃないが、出されたご飯は何でもおいしくいただく男でありたい。肉や魚は外食やお呼ばれ、頂き物など、いわば“ハレ”の食い物ってことでいい。それでもこれまでは月に2,3回くらいは“ハレ”のもん食わないと欲求不満になったもんだけど、311以降の食品流通事情見てて、「ダメだこりゃ」となった。でも、ここ2年ほど妻が作る飯を食ってたおかげで、穀菜食で十分もつ身体になってたみたいで、肉、卵、乳製品やめても全然いける。(料理上手で研究熱心な妻に感謝m(_ _)m

ところで、喜びと快楽の違い、って分かるだろうか?
現代人の多くは、喜びは快楽を伴うもの、もしくは快楽=喜び、ちゃうの?なんて思ってたりするんじゃないだろうか。

喜びってのは、快楽とは関係ないのよ、全く。
ところがあまりに喜びから切り離された生活を送っているから、快楽を喜びと錯誤してると思う。
快楽の因となるのは刺激とそれに対する渇愛だ。だから快楽は市場経済と相性がいい。
喜びの因となるのは落ち着き(serenity)と手放すこと(letting go)だ。それは微細な、瞑想的と言っていいような体験だ。

何を言いたいか?
核ハザード以降の食品流通のヤバさのせいで“ハレ”の食事を断念せざるを得なくなったことで、かえって食の「喜び」に目覚めた気がするんよ。私は。
現代人の食事って、結局、記号であり商品であり刺激であって、身体をつくり、養うという感覚をなおざりにしたものなのではないだろうか。過剰な快楽志向が当たり前になっている。よく「肉食べなくて大丈夫なの?」などと心配されるが、毎日肉食べてる人はたいてい中年以降病気持ちじゃないか?

玄米や雑穀を日常食し続けてると、食べ物が身体を養う、って感覚がストンと落ちる。食ってて「身になってる」「力になってる」ってのが実感できるのね。微細に。もしかしたら、太古の日本人が食ってきた物と通じるから、DNAに記憶されてんのかもしれない。刺激に対する貪りとは違った感覚なわけよ。

瞑想始めたばっかりの頃、先生に「本気で瞑想をやるためには断念が必要だ」と言われてビビッたことがある。それを思い出した。
今の世の中で「喜び」を見出したければ「快楽」を断念する必要があるんじゃないか。
これは禁欲ではない。断念と禁欲は似て非なるもの。そのことを分かってもらうことさえ難しい。現代人にとっては欲望と快楽がデフォルトになっているから。だってその2つが資本主義のドライヴだもんね。

前の日記に絡めるなら「赤いピル」を飲むのは「快楽」を断念してリアルを識る「喜び」を採ることだ。それは選択ではなく、ありのままの現実を観るか観ないかという「決断」だ。選択の問題だと思うのはあなたが「消費者」だから。あれやこれや選べるのは「商品」だけだ。現実は選べない。

ちょっと前までTwitterのプロフィールに「都会と田舎のいいとこ取りを模索中」などと書いていたのだが、「都会」も「田舎」もライフスタイルというカテゴリーで流通する「商品」だ。そんな虚構がきれいさっぱり潰え去った後にどんな風景を観るのか?選択肢の中から選ぶだけの「消費者」から、自発的な「決断」をもって生きる人になれるかどうか?その辺が今後のサバイバルのためのメインイシューになってくるだろう。
posted by snail trail at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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