2011年09月11日

ARE YOU HUNGRY ?

「最近、夢見が悪いし、スッキリ起きられない」とボヤいていると、家人に「夜更かしして夜食するからだ」とキッパリ言われた。確かにね… 空腹のほうが朝、寝起きは良い。

初期人類から数百万年にわたる人類の進化の歴史の中で、そのすべての期間、人類は飢えていた。今でも飽食してるのは世界人口のほんの一部。
だから、人の身体は生物学的に“飢えている状態”をデフォルトにしてつくられているだろう。

人間は空腹なときのほうが、精神が正常に機能する。瞑想リトリートでも、午後から固形食を摂ることは禁じられる。ブッダ自身が教えたサンガの戒律だそうだ。

バブル爛熟期に作家の村上龍がホストの『Ryu's Bar』という番組があって、日曜の晩、俳優、ミュージシャン、作家、映画監督などのいわゆる“文化的にエッジな人々”をゲストに、村上龍が酒を飲みながら語り合うというホントにバブリーな番組だった。そして当時、大学生だった僕はよく観ていた。

その番組での村上氏の言葉をふと思い出した。たしか「最近の若者はおとなしい。ハングリー精神(死語?)がない」みたいな、いつの時代にも聞かれる紋切り型がゲストの口から出たのだ。村上氏はそれに同意した上で、「でもさぁ、いまどき“ハングリー”ってのは“プアー”と同義語でしょ?」と言い放った。そして一同大爆笑。みたいな。

実は僕は当時これをみて「あー、それ分かる!」と思ったいけ好かない学生だった。
まあ「イマドキの若いヤツは…」っていう、無自覚なオジサンたちがよく口にするナンクセをバサッと斬ってくれた気がして痛快だったけど。

でも、今から考えると胸糞悪い。ああいうバブル期のTV番組も、そこに登場する作家やアーティストも、それを日曜の晩に観てるバブル学生(私)も。
そして「いまどき“ハングリー”ってのは“プアー”と同義語」ってのが、なんか気の利いたフレーズとして響いてしまったあの時代の空気も…

人は飽食すると満ち足りて幸せになるかといえばそんなことはなくて、さらなる快楽と刺激を求めて欲望を肥大させるだけなのね。その結果として、個人レベルではメタボやら癌やらのいわゆる“生活習慣病”が待ってるだろうし、国家レベルでは気づいたら原発っていう癌細胞が全国に54箇所も転移してた、っていう現在の状況が待ってた、ってことなんだろう。

飽食というのはある種の intoxication なのだろう。
過剰なカロリーの供給は生体というシステムを酩酊させる。そして酩酊してリミッターが壊れてしまった結果、無際限にカロリーの供給を求める。

自らの身体で、精神で実験すれば、こうしたシステムの法則は実感できる。粗食で腹八分目(六文目と言う人もいる)を心がければ、それだけで心はウソのように平穏で明晰になる。寝つきも寝起きも良くなるし、塞いだ気分に落ち込むことも少なくなる。

国家全体を断食道場に放り込む方法ってないものかねw
posted by snail trail at 12:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月02日

無題

東京から埼玉の小川町に越したときは、生活に対する意識の高い人が多くて感心したもんです。
今、小川町から長野の美麻に来て滞在してみると、なんだかのびのび生きてる人が多くてハッとさせられます。

別にヒッピー系の人たちの話ばかりじゃないよ。
市民農園には毎週地元の農家のおばあちゃんが畑の指導に来てくれてるんだけど、その人に、長野の農家は冬場は何をしてるのか訊いてみたことがある。
「さあ… 冬場は何もできんから、みんなぷらぷらしとんじゃないのかね」
とか、そんな答えだった。
…そ、そっか、、、「ぷらぷら」してるのか(^^;なんかいいなぁ…

“冬”とか“雪”とか“山”とか、ここでは人間がどう頑張ってもどうにもならないものがすぐそこにあるのね。その存在が日常的に感じられる。晴れてりゃ北アルプスが見えるでしょ?あれはやっぱり小川の里山や秩父の山とは全く違うバイブレーションを発してるのよ。人間が“管理”したり“コントロール”したりできない世界ですよー、って。だからもう、それに関しては諦めるしかない。

諦めがついた人は自由なのよ。何とかしようと思ってる人はやらなきゃいけないことが次から次へと出てくるから忙しくなる。なまじ選択肢があるから迷う、悩む。これは欲だよね。

大事なのは、シニカルにじゃなくて、謙虚に諦めることなのね。
これ、難しい。
戦後の日本の社会の中で教育(洗脳)されてきた人間にはとくに。

人生って、人がどう頑張ってもどうにもならないものがある。フランス語で C'est la vie っていうのは、そういうニュアンス。「それが人生さ!」って。だから、「どうにもならないもの」に対する感性を養うためには、別に山ん中に住む必要はない、ホントは。教養ある大人は皆分かってることだったんじゃないの、昔は。洋の東西を問わず。

山もそうだし、人生もそうだけれども、「どう頑張ってもどうにもならない」ってことが、“美”に通ずるんだよね、結局。
そして、何よりもまず自分が手放す、諦める、ってことが“自由”なんだ。
そういうことを識っているのが“大人”であり、それを伝えていくのが“文化”であり“教養”だったはず。
どれも今の日本には存在しないけど。

なんかここへ来てまた一つ余計な力が抜けてしまいそうな気がする。(^^;)
posted by snail trail at 10:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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