2011年10月16日

ジジェクのスピーチを訳してみた

スロベニア出身の精神分析家、思想家のスラヴォイ・ジジェクの Occupy Wall St. でのスピーチがTwで飛んできました。仕事中に限って余計なことをやりたくなっちゃうのが人情というもの…
原文はこちら。
http://www.imposemagazine.com/bytes/slavoj-zizek-at-occupy-wall-street-transcript
YouTube で見ると周囲の聴衆が口伝えする「人間拡声器」の様子が分かる。プロテスターたちは拡声器を警察に取り上げられたのでこの方式に。
http://www.youtube.com/watch?v=eu9BWlcRwPQ


彼らは私たちを負け組だと言ってるようだが、本当の敗者はウォール・ストリートにいる。連中は私たちのカネで莫大な額の保釈金を払ってもらったようなものだ。私たちを社会主義者だと言うが、いつだって金持ちのための社会主義が存在しているではないか。私たちが私的財産を尊重していないと言うが、たとえここにいる全員が何週間も日夜休まず破壊活動を続けたとしても、2008年の金融崩壊で破壊された個人の財産には及びもつかない。私たちを夢想家だという。でも、夢を見ているのはこのままの世の中が永久に続くと考えている人々だ。私たちは夢を見ているのではない。悪夢となってしまった夢から目覚めようとしているのだ。

私たちは何も破壊してなどいない。私たちは単にシステムが自己破壊するのを目撃しているのだ。誰でも知ってるマンガの定番のギャグ。ネコが崖にやって来るが、足の下に何もなくなってもそのまま歩き続けてしまう。そして、ふと下を見て気づいた途端、落っこちてしまう。私たちがここでやっているのは、ウォール・ストリートの連中に「おい、下を見てみろよ!」言うことだ。

2011年4月半ば、中国政府はテレビ、映画、小説などで別の現実やタイムトラベルを描いたものを禁止した。これは中国にとってよい兆しだ。中国の人たちはまだ別の現実を夢見ることができるから、それを禁止する必要があったわけだ。この国では禁止する必要すらない。支配的システムが私たちが夢見る能力すら奪ってしまった。巷にあふれる映画を見てみるがいい。世界の終末を想像するのは簡単だ。巨大な隕石がすべての生命を死滅させるだの何だの。それなのにあなたは資本主義の終わりを想像することができない。

私たちはここで何をしているのか?共産主義時代のふるったジョークを一つ。東ドイツからシベリアへ送られることになった男の話だ。手紙を書いても検閲官に読まれてしまう。そこで彼は友人たちに言った。「暗号だ。もし私の手紙が青インクで書かれていたら、そこに書かれていることは本当だ。もし、赤インクで書かれていたら内容はウソだ。」ひと月経って、友人たちは男からの手紙を受け取る。全部青インクで書かれている。内容はこうだ。「ここではすべてが素晴らしい。店は質の良い食べ物でいっぱいだ。映画館では西側の良い映画をやってる。アパートは広くて豪華だ。ただ1つ、赤インクだけは売っていないんだ。」
これは現在の私たちの生活そのものだ。私たちはありとあらゆる自由を享受している。でも、ここには“赤インク”がない。私たちの〈非-自由〉を表現するための言葉がない。私たちが教えられる自由を巡る言説―「テロとの戦い」とかなんとか―は自由を歪曲する。あなたがたがここでやっていること。それはすべての人々に“赤インク”を与えることだ。

ひとつ危険がある。自己陶酔してはならない。確かにここで起きていることは素晴らしい。でも、祭りは安っぽい気晴らしだ。重要なのはこのあと、日常生活に戻ってからだ。何か変わるだろうか?この日々を振り返って「私たちは若くて、ビューティフルだった」なんて追憶に浸ってほしくない。「私たちはオルタナティブを思考する自由がある」これこそが私たちの基本的なメッセージであることを忘れないでほしい。このルールが破られたとしたら、私たちはあるべき世界に生きていないということだ。しかし、道は遠い。私たちは真に難しい問題と直面することになるだろう。私たちが欲しくないものははっきりしている。では何が欲しいのか?資本主義に代わる社会機構とは?どんなタイプの新しいリーダーが必要なのか?

覚えておいてほしい。問題は不正や強欲ではない。システムそのものだ。システムが否応なく不正を生む。気をつけなければいけないのは敵だけではない。このプロセスを骨抜きにしようとする、偽の味方がすでに活動を始めている。カフェイン抜きのコーヒー、ノンアルコールのビール、脂肪分ゼロのアイスクリームなどと同じように、この運動を無害な人道的プロテストにしようとするだろう。私たちはもう、コカコーラの缶をリサイクルしたり、チャリティーに募金したり、スターバックスでカプチーノを買ったらその1パーセントが第三世界の飢えた子どもたちに送られるなどといったことでは満足することができない。だから、ここに来たのだ。労働と拷問をアウトソースした後、今や婚活産業が私たちの愛と性をアウトソースし、見えてきたことは、私たちはもう長い間、政治参加をアウトソースすることを許してきてしまったということだ。それを取り戻さなければならない。

コミュニズムが1990年に崩壊したシステムを意味するのであれば、私たちはコミュニストではない。それらのコミュニストたちがこんにち、最も効率的で容赦ないキャピタリストであることを思い起こそう。こんにちの中国にはアメリカの資本主義を凌駕する勢いの資本主義があり、しかもそれは民主主義を必要としていない。だから、資本主義を批判する人が、民主主義の敵だなどと言われる筋合いはないのだ。民主主義と資本主義の結婚は終わった。変化は可能だ。

こんにち、可能であると考えられていることとは何か?メディアを追ってみればいい。テクノロジーとセックスの分野においては、あらゆることが可能であると考えられているようだ。月に旅行することも、バイオジェネティックスの力によって死を克服することも、動物やら何やらとセックスすることも。一方、社会と経済の分野においては、ほとんどあらゆることが不可能だとされている。富裕層への課税を増やしたいと言えば、競争力を損なうことになるから不可能だと言う。医療保険制度にもう少し金を回してくれと言えば「不可能だ。全体主義国家に通じる」と。死を克服できると言いながら、医療保険に予算を割けないというのは、どこかが狂った世界だ。

優先順位をはっきりさせる必要があるかもしれない。私たちが求めているのは生活水準を上げることではなく、生活を良くすることなのだ。私たちをコミュニストと呼べるとしたら、それはコモンズ(共有財)に関心を持っているという一点に尽きる。自然のコモンズ。知的財産の民営化のコモンズ。バイオジェネティックスのコモンズ。これこそが、私たちが戦わなければならない唯一の理由である。コミュニズムは確かに失敗した。しかし、コモンズの問題は今ここにある。

私たちのことをアメリカ的ではないと言う人もいる。しかし、自分たちこそが真のアメリカ人であると主張する保守派原理主義者たちはきちんと考えてみるべきだ。キリスト教徒とは?すなわち聖霊である。では聖霊とは?それは互いへの愛によって結ばれた信者たちの平等なコミュニティーであり、その成員は自らの自由意志と責任によってのみ拘束される。その意味で言えば、聖霊は今ここにいるではないか。そしてウォール・ストリートでは偶像を崇拝する不敬な異教徒たちが跋扈しているということになる。

だから、私たちに必要なのはひとえに忍耐だ。私が唯一恐れているのは、私たちがそのうち家に帰って、年に一度みんなで集まってビールを飲みながら「あの時はよかった」などと語り合うようになってしまうことだ。そうはならないと自分自身に約束してほしい。人は何かを欲しながら、それを手に入れようとしないことがよくある。自分が欲しいものを手に入れるのを恐れないでほしい。どうもありがとう。


posted by snail trail at 01:39| Comment(9) | TrackBack(0) | 翻訳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月01日

There's A Riot Goin' On! 〜デモについて、再び

書こう書こうと思ってるうちに2週間も経ってしまった…
うまくまとまらなかった。
でも、柄谷行人氏らの声明(http://associations.jp/archives/584)に元気づけられたので、とりあえずアップしておくことにする。

*
さる9月19日、朝の5時に起きて松本まで車を飛ばし、高速バスで3時間半かけて東京まで出かけてきた。
「さようなら原発集会」に参加するためだ。

高速バスは11:20に新宿に着いたので、若干時間の余裕がある。そこで千駄ヶ谷に行く前に霞ヶ関へ。経済産業省前のハンストに“表敬訪問”。山口県の上関原発建設反対運動にかかわっているメンバーが中心だ。私は今年の2月に田ノ浦の強行工事が始まった様子を偶然、Ustで見て、それ以来動向を追っていた。それからほんの1ヶ月がそこらで311が起こり、原発問題は他人事じゃなくなった。妻と2人で1ヶ月足らず西日本に逃げてうろうろしていた。その最も西の到達地が上関田ノ浦だった。

彼らのやり方には共感していたし、驚嘆していた。イメージしていた“反対運動”とは違うものを感じたから。まあ、そもそも私たちが抱いているいろんなものに対する“イメージ”はすべて編集され操作されたもの。そのことが明らかになったのが311だってところは押さえとかなきゃいけない。“反対運動”のイメージなんて、所詮、マスコミによって植え付けられたステレオタイプにすぎない。

「ハンスト」というと何か壮絶なものを想像するかもしれないが、彼らは、あっけないほど“ふつうの”若者たちだった。そこには、こちらがとまどってしまうほどに、ルサンチマンも、自己顕示欲も、“右”も"左”も、“思想”も、セクティズムも、感じられない。ふつうの若者たちが「核という、環境にも生命にも絶大な害を及ぼすものを使い続けないでほしい」という、あまりにまっとうな考えを表明し、当たり前の対話を求めるために、体を張っている。そうせざるを得ない状況がある。(公式声明文http://hungerstrike.jimdo.com

なぜハンストなのか?ここに実は“権力”と対峙するとき、人が取り得る唯一の戦略があるように思う。

上関のログハウスで、20年以上建設反対運動を続けてきた人が言っていたことを思い出す。「原発をつくり出す国や経済をすぐに変えることはできなくても、原発の基礎を造るための最初の杭が打たれるのを阻止することは、5人くらいで体を張ればできる。最初の杭が打てなければ原発はつくれないだろ?」

権力から様々な装飾を剥ぎ取って、その本質は何かと問えば、それは個々の身体に対する物理的な力の行使、すなわち暴力に他ならない。(フーコーに倣えば、権力の本質は、監獄や刑罰や戦争の中にこそ現前している。)ならば、それに対する“抵抗”もまた必然的に自らの肉体を賭したものにならざるを得ないだろう。上関で聞いた「体を張って止めなければ」という言葉のリアリティーはそこにある。

ハンガーストライキという手段は、本来は国家が肉体に対する“刑罰”として行使するような行為を、抵抗者が自発的に行ってしまうことによって、権力の本質をあぶりだしてしまう。だから権力はハンストを嫌がる。せいぜいおよび腰で迂回し、無視するしかできないのだ。それは人が国家と対峙するためのギリギリの戦略であり、痛烈なイロニーだ。彼らがハンストを選んだということは切実な思いからくる直観だったのではないか。

**
「さようなら原発集会」が始まるのは13時。千駄ヶ谷駅に電車が到着したのはその15分前くらいだったが、駅には人が溢れ、階段に向かう人の流れはほとんど動かない。ようやく改札口まで到着し、妻と合流。

demo eki.jpg

しかし、駅から明治公園までの道も人、人、人だ。中高年の姿が多いのが意外だった。

way to park.jpg

明治公園にはさまざまな団体や組合のノボリが林立していた。入口近くで革●が拡声器で怒鳴っている。広場の大きな部分を、幟の下に集合している団体参加者が占めている。素人の乱やツイッター呼びかけデモでは主役の今風のプラカードやコスチュームのパフォーマンス集団も相当数いるが、なんか基本的にはメーデーに来たような雰囲気だ。

meiji park1.jpg

会場でセクトがオルグしていたり、労組がお揃いのTシャツ着て体育座りしていたりするのを見て拒絶反応を覚える人もいるのだろうが、私は一向に気にならなかった。「ああ、でっかい集会って、こうだよなぁ…」と。

大きいデモに行けば左翼団体がいるのは、インドに行けば物売りがいるようなもんじゃないの?物売りがイヤな人はインドに行かなければいい。他にもデモはあるし、ネットデモだっていい。ただ、セクトの旗見てデモ拒絶する人は物売りがイヤだからインドに行かないという人と同じ。貴重な体験を逃す。http://twitter.com/#!/snailtrailism/status/116308674288431104

さまざまなグループがそれぞれの“訳通不能”な思惑で参加しているほうが運動は捕捉、分断されにくい。「連帯」とは「同一化」のことではないし、そうあってはならないのだから、むしろ相容れない集団が物理的/肉体的に集会していることに価値があると思う。

それにしても、初めて見るような群衆。
fukushima team.jpghoukeikun.jpgfucking.jpgfor the kids.jpgtosuke.jpgmaruki museum team.jpgtokigawa djembe team.jpgkaijo.jpg


そして警官も。

young police man.jpg

デモ隊を制止し、小集団に分断し、ルートを守らせるために押せば押し返してくるものとして目の前に存在する警官たちこそ、肉体を持った、現前する「権力」に他ならない。例えば、どこかの独裁国家なら、全く干渉のないままデモが進んで、いきなり大虐殺、というパターンだってあり得る。

でも、結局のところ同じことなのだ。「戦闘規約」をつくるのは警察の側であり、それはほとんど恣意的に変更される。あるデモでは交通やゴロツキ団体から市民を守っていた警察が、別のデモでは参加者を片っ端から不当逮捕する。ルールを作るのも破るのも警察の側次第。それはデモ隊(市民)と警官(国家)は決して“対等”ではないのだということを示すために意図的にそうしている。

国家の現前とは一様ではなく、また予測可能なものではありません。それは突発的(sporadic)なものです。われわれはいつ国家が現れるか、確実には分かりません。国家介入にはどこかデタラメさがあるのです。それは盲目の巨人が滅法に打ちかかってくるようなものです。しかしこのデタラメさと非一貫性が威嚇の方法として大変効果的なのです。デヴィッド・グレーバー

「デモには賛成だが、マナーを守るべき。そうすれば警察とのトラブルは起きない」と言っている人たちはナイーブだと思う。行儀よく4列で引率されるままに歩いていようが、警官に罵詈雑言を浴びせようが、いつでも何の前触れも根拠もなく逮捕される可能性はある。このことはデモに参加するリスクとして心得ておいたほうがいい。

***
権力は物理的な暴力装置としてしか本来、あり得ない。

税金を納めなかったらどうなる?督促が来ても無視していたら?税務署員が取り立てに来ても払わなかったら?
実は、それだけではとくにどうにもなりゃしない。権力はその時点では現前しない。税金を払わなくても人は死にはしない。それどころか、なんの不都合もありはしない。不都合なのは権力の側だ。そこで、あなたはいずれ「突発的」に身体を拘束されることになる。身体に対する物理的な力の行使だけが、実は人が現実的に体験できる「権力」のすべてだ。

****
デモとは物理的な直接行動である。その意味で、表象システムである代議制に対する批判と補完の契機を孕んでいる。柄谷氏が「デモのある社会を」というとき、射程はそこまで及んでいる。

ツイッターは情報伝達ツールとして革命的かもしれない。脱原発フォロワーを集めてリスト化するのも面白い試みかもしれないが、それだけでは記号である。記号は何らかの表象システムが先行しなければ、意味を持ち得ない。

だからこそ、デモとはまず何よりも、記号化に抗う身体がそこに抵抗の証として現前することだ。

例えば、「1000万人アクション」の署名フォーム(http://sayonara-nukes.org/shomei/)は基本的に直筆を原則としている。それは直筆の署名のほうが固有の肉体を直接的に媒介する強度を持ちやすいからだ。柄谷さんの本をよく読んでいたのはもうウン十年前の話だが、固有名は表象不能な事件性である、という『探求』の論旨を思い出した。

*****
9・11の「さようなら原発集会」は主催者発表6万人、ドイツメディアでは10万人が参加したと報道されたそうだ。明治公園が満杯になると8万人くらいだから、入れなかった人々を入れれば10万が正しいだろう、と言う人もいる。文字通り、〈抵抗する身体〉が都市に溢れかえったのだ。

これが倍になったらどうだろうか?20万人になったら?
もはや、それだけの数の〈抵抗する身体〉が“そこにある”だけで都市の機能を止めてしまうだろう。これは権力にとっては脅威である。たとえ“マナー”を守っていても、そのとき警察が市民を守る正義の味方であり続けるとは思えない。力で排除しようとするだろう。Confrontation はいずれ避けられないだろう。

前にも書いたが、私は決してそうなって欲しいと思っているわけではない。そして、「市民的」で「健全」なデモなら行ってもいいと思ってる人たちに不安を与えるのも本意ではない。でもこれから、「ただちに」影響のなかった健康被害がどんどん出てくる。自分がいつまでも「大丈夫」な側にはいられないことが明らかになってくるだろう。そうなったら、私たちは体を張って抵抗するしかない。しなければ、こちらの生存が一方的に損なわれるだけなのだ。

そのとき、上関で20年以上「体を張って」原発を止めてきた人々や、霞ヶ関でハンストをした若者たちの存在が、私の心の支えになってくれるように思う。


デモが日本を変える──柄谷行人氏「9・11原発やめろデモ」でのスピーチ
http://associations.jp/archives/437



posted by snail trail at 00:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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