2011年11月22日

Turn It Inside Out !

友人の収穫祭でライブをやってくれたミュージシャンのK.N.さんが語っていた話。

K.N.さんの知人で“超能力者”がいて、スプーン曲げはもちろん、テニスボールを裏返しにしてしまったり、信じられないようなことする人らしいんだけど、その人が去年、次のようなことを言っていたという。「来年は内側と外側がひっくり返ってしまう年になる。だから、内側と外側に矛盾がなく、バランスの取れてる人は良いのだが、そうでない人は大変なことになる」と。

私はスピリチュアリティの重要性を擁護する人間だが、いわゆる“スピ系”ではない。だから“アセンション”に関する話は眉に唾をつけて聞いてる(ゴメンね)。この話もよくあるアセンションばなしにも聞こえるが、それだけのものとして聞き流せないリアリティーがあって、妙に気になった。それは「内」と「外」というトポロジーに関してである。

「内」と「外」を互いに不可侵なものとして厳密に分けることで技術的に(そしてイデオロギー的にも)成立していたのが、原発ではないか。
そして、原発事故とは、本来、閉じられた空間の内部に抑え込まれていなければならないはずのものが、内部と外部の境界を破って噴出してしまうことに他ならない。
そう考えると、上の“予言”は311の本質を突いているのである。

そして311は単に災害であるだけでなく、人の心の本質をさらけ出さすはたらきをしたと思う。
「内」と「外」のバランスの取れていない人たち、つまりこれまで「外」のロジックで「内」なる本性を抑圧し、隠蔽し、糊塗しながらやってきた人たちは、原発事故に言及すると途端に馬脚を現す。

別に東電や保安委のことだけを言ってるわけじゃない。

人間の心なんてものは、ありとあらゆる傷や痛みや弱さや矛盾の貯蔵庫みたいなもので、それとどう向き合って、折り合いをつけてやっていくか、ってとこに、その人の知性や徳みたいなもんが現れると思う。ここで、あたかもそんな“汚物”は格納容器の中にでも封じ込めておけるかのように振舞う人は、「内」と「外」が逆転した際に「大変なことになった」のである。

私は自分が生きているうちに世界の大きな転換を目撃するような予感がしているのだが、それは階級闘争のように“Turn it over”すなわち「上」と「下」を逆転させる、っていうトポロジーではない変化になるのではないかと思ってる。やっぱり「内」と「外」のイメージなわけ。でもそれは「内」が境界を突き破って「外」へ表出する、ということでもない。それはすでに原発事故で起きてしまったことだ。

そうじゃなくて、テニスボールがツルリと裏返ってしまうような、「内」と「外」が連続的に接合されてしまうような感じ。ニューアカ世代にはおなじみ「“クラインの壷”モデル」ってことになるかな。

そこでは唯物論とアニミズムが、アナーキズムとスピリチュアリティが、連続的な地平上で語られることになるような気がする。

Occupy 運動に関しても、ラカン派精神分析のジジェクや人類学のグレーバーの思考が、その「可能性の中心」を最も的確に言い表しているように思えるのが、その証左ではないか。


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2011年11月02日

デヴィッド・グレーバー on Occupy Wall Street

前回のジジェクのスピーチの翻訳はたくさんの方の目に触れたようで、訳者冥利につきます。

でも、僕がいちばん言葉を聞きたかった人は、実はジジェクやナオミ・クラインではなく、デヴィッド・グレーバーでした。ロンドン大学ゴールドスミスで教鞭をとる人類学者でありアクティビスト。2000年以降の反グローバリズム運動に積極的に関与してきた人です。Democracy Now ! のインタビュー(http://www.youtube.com/watch?v=CPeaFKvszKI)では、Occupy Wall St.の「オーガナイザーの一人」と紹介されています。

残念ながら訳書が少ないのですが、Occupy に関してジジェクも高く評価しているところの水平的組織化と意思決定プロセスはグレーバーが以前から提唱/実践しているものですし、モースとマルクスと人類学をつなぐ価値分析や、今回の運動と密接にかかわるDebt(負債)に関する論考など、個人的には今ドンピシャな仕事をしている人だと思っています。

以下、The Guardian に寄稿された彼の文章を翻訳しました。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/cifamerica/2011/sep/25/occupy-wall-street-protest

Occupy Wall Street rediscovers the radical imagination
The young people protesting in Wall Street and beyond reject this vain economic order. They have come to reclaim the future

Occupy Wall Street はラディカルな想像力の再発見である
ウォールストリートから各地に広がる若者たちのプロテストは虚飾の経済秩序を拒否する。彼らは未来を取り戻すためにやって来た。

なぜ皆はウォールストリートを占拠しているのか?
つい最近、警察による厳しい取締りが行われたにもかかわらず、この運動がアメリカ全土に飛び火し、国中からピッツァやらお金やら機材やらが送られてくるばかりか、各地で人々が Occupy Chicago、Occupy Florida、Occupy Dever、Occupy LAなどといった独自の運動を始めているのはなぜか?

分かりやすい理由。私たちはこの国の新しい世代による断固とした自己主張の始まりを目撃しているのだ。彼らは学校を卒業しても、仕事も未来もないばかりか、免れようのない巨大な負債を背負わされている。彼らの大半は労働者階級か、さもなければつましい家庭の出身だ。彼らは言われたとおりに勉強して、大学に入った。でも今やそのせいでひどい目に遭い、屈辱を味わされている。道徳心を欠いた怠け者呼ばわりされる人生が待っているのだ。

自分たちの未来を奪った経済界の大物たちに、一言もの申そうとすることが、それほど突拍子もないことだろうか?

状況はヨーロッパと全く同じだ。私たちはとてつもない社会的失敗を目撃しているのである。
“占拠者”たちはアイデアに満ち溢れた人々だ。健全な社会ならば彼らを動員し、そのエネルギーを人々の暮らしを良くするために活用するであろう。なのに彼らは今、自らのエネルギーを社会システムをどうやって潰すかを思い描くために用いている。

しかし、最も大きいのは想像力の欠如である。今、繰り広げられているのは、本来、2008年になされるべきだった対話を、今度こそ実現しようという要求だとも言える。世界の金融システムがあわや崩壊という危機の後、ほんのわずかな間だが、あらゆることが可能に思えた期間があった。

それまでの10年間、私たちが聞かされてきたことは全部ウソだった。市場に自己調整作用はないし、金融商品の開発者たちは無謬の天才ではなかった。そして負債は本当は支払わなくてもよいどころか、貨幣そのものが政治的な道具に過ぎず、政府や中央銀行の意のままに、膨大な金が無から生じたり、消えたりするのだ。エコノミスト誌ですら「資本主義:それは得策だったのか?」などという見出しを掲げたほどだ。

すべてを考え直すときが来たように思えた。市場とは?貨幣とは?負債とは?そして“経済”とは本来なんのためにあるのか?根源から問うのだ。そんな空気が2週間ほど続いた。そのあと、歴史上稀に見る勇気の欠如から、私たちは皆耳を手で塞ぎ、なんとかすべてを元通りに近い形に取り繕うことに必死になった。

無理もないかもしれない。この数十年の間、世界を動かしてきた者たちの本当の優先事項は、バイアブルな資本主義を創出することではなく、現行の資本主義の形こそが考え得る唯一の経済システムであり、その欠陥は取るに足らないものだという認識を私たちに植え付けることだった。その結果、私たちは今、機構全体が崩壊するのを呆気に取られたまま眺めているというわけだ。

今になってはっきりしたのは、1970年代の経済危機は決して終わっていなかったということだ。国内での安易・安価なクレジットと、海外での大量略奪でごまかしただけだ。後者は“途上国債務危機”などと呼ばれた。しかし“南”の国々は反撃した。Alter-Globalization運動は最終的に成功を収め、IMFは東アジアとラテンアメリカから駆逐された。その結果、債務危機はヨーロッパと北アメリカに里帰りした。やり口は全く同じだ。まず経済危機を宣言する。そして中立であるとされるテクノクラートにその処理を委ねた後、“緊縮財政”という名の略奪の宴を繰り広げるわけだ。

これに対してわき起こった対抗運動は当時のグローバルジャスティス運動に驚くほどよく似ている。旧態依然とした政党政治の否定、ラディカルな多様性の受容、下からの新しい民主的手続きの発明、など。違っているのはその標的だ。2000年の運動ではそれまで存在しなかった世界規模の官僚機構が相手だった(WTO、IMF、世界銀行、NAFTA)。それらの機構は民主的なアカウンタビリティを一切もたず、ひとえに多国籍資本の利益のためにのみ存在するものだった。今日の運動は、ギリシャやスペイン、そして今やアメリカといった国家の政治的階級全体を相手取っている。しかし、その本質は同じだ。抵抗者たちが公式要求を表明するのをためらう理由もここにある。政治的要求をすることは彼らが否定している政治家たちの存在理由を認めることになりかねないからだ。

しかしながら、歴史がついに創られた暁には、“アラブの春”に端を発したこの一連の動乱こそが、アメリカ帝国主義の解体に向けたいくつもの波の到来を告げる祝砲であったと記されるであろう。三十有余年のあいだ、プロパガンダを実体に優先させ、反対の政治的根拠となりそうなものをシラミ潰しに嗅ぎ出し続けた国では、若き抵抗者たちの勝算は心もとないものに思えるかもしれない。金持ちたちが、若い世代をまるごと狼に投げ与えてでも、自分たちが奪ったものの分け前を持ち去る魂胆でいることは明らかだ。だが、歴史は彼らの味方ではない。

ヨーロッパの植民地帝国の没落を思い起こしてみるといいだろう。金持ちがおいしいところを全部持ち去る、ということにはならなかった。その代わり、近代福祉国家が創出されたではないか。今回の一戦がどのような結果をもたらすかは正確にはまだ分からない。でも、30年来、人類の想像力にはめられていたカセを“占拠者”たちがついに打ち砕くことができれば―2008年9月の最初の数週間そうであったように―すべては再び交渉のテーブルに載せられるはずだ。そうなれば、ウォールストリートやアメリカ各地の都市を占拠した人々は、人類に考え得る最高の貢献をしたことになるだろう。






posted by snail trail at 18:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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