2012年01月29日

『Canta ! Timor』を観た

昨日は松本のあがたの森文化会館で広田奈津子監督『Canta! Timor』を観た。妻が以前、あるイベントで監督にお会いしたことがあり、“リアルナウシカ”のような人だと言っていた。いい映画だった。いろいろ考えた。



4〜5年前、埼玉の有機農家で研修していた時に、3ヶ月ほど東ティモールから研修生が来ていた。当時は「どこだっけ?」「ニュースで聞いたことある」「戦争してるんだっけ?」という程度の認識だった。無口で誠実な2人だったが、慎み深いたたずまいの奥に悲劇があったとは… 東ティモールの独立を勝ち取るために3人に1人が死んだのだ。

研修が終わるとき、友人宅で東ティモールの2人を招いて食事をした。彼らは輪になって手をつないで足を踏み鳴らす踊りを教えてくれた。映画を観て、それが「テベ」という伝統の踊りであり、独立運動の中で人々の団結の源であったことを知った。彼らは日本人にそれを教えてくれた。

東ティモールの情勢が安定しない理由の一つは、沖合いにある海底油田・ガス田の利権に目をつけている国が多いからだと言われている。日本は東ティモールの独立運動に対して激しい武力弾圧を加えていたインドネシアに多額の経済援助をしていた。

地下資源は利権を生み、領土の境界の問題をこじらせ、戦争を生む。原発のオルタナティブとしてのGTCCの即戦力は否定しないが、天然ガスは地下資源であるからして、宿命的にこの構造の一部をなすことになる。

太陽光などの自然エネだって、利権構造を生まないわけではない。だが地下資源と異なり“領属化”しにくい性質上、国家ぐるみの軋轢は生みにくいだろう。とはいえ、「地下資源は利権を生む」という言い方は不公平かもしれない。利権構造を産むのは、人間の“欲”だ。

ティモール軍は捕虜にしたインドネシア兵を決して殺さなかったと言う。自分たちの考えを誠実に説明し、釈放したのだそうだ。その結果、インドネシア人の間にもティモール独立のシンパが増えていった。その信念と忍耐に脱帽する。

今の日本人にそれに匹敵する信念と忍耐が持てるだろうか?持てなければ脱原発も真の民主主義の実現も心もとないと思う。

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2012年01月23日

「決闘」的思考 〜原発国民投票に関して〈其の二〉

議論においては相手の主張を否定することではなく、こちらの主張を理解してもらうことが肝要だと思う

原発国民投票に関する議論を見てると、ほとんど叩き合いに終始していて暗澹たる気分になるんだよね。

そしてこれ、市民の政治参加の方法論における“オールドスクール”と“ニューカマー”のヘゲモニー争いの様相を呈してきていて、それがまたゲンナリする。

産業界がGTCCに舵を切ってそっち主導で脱原発が既成事実になるのか?飯田哲也氏の腹がどの程度黒いのか?そんなことを断定的に推測できるほど私は情勢通ではない。

でも、はっきり言えるのは、ゴタゴタいうなら投票(多数決)で決めよう、直接投票なら恨みっこなしだ、というのはたいへん粗大な論理だということだ。民主主義の未来はそっちじゃねえだろ!と思う。

国民投票が実施されれば、否が応でも議論が尽くされるはず、という人もいるが、そのときの議論は対話を目指したものではなく、対立する主張をひたすら撃ち落すためのものになるだろう。なぜならその後に投票(多数決)という「決闘」に臨むのだから。

多数決は数を弾丸としたDuel(決闘)の構造を持っている。票を弾丸にした本土決戦が行われるとき、本当にこの国に民主主義が訪れるだろうか?

「多数決に依らない民主主義を想像(創造)できない」と言うのは「資本主義のオルタナティブを想像(創造)できない」と言うのと似ている。さらにそれは「経済成長に依らない豊かさ」「消費に依らない幸福」を想像(創造)できないと言うことと通底している。
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2012年01月17日

絶対、ってことばは絶対に使ってはいけない 〜原発国民投票に関して〈其ノ一〉

原発国民投票についてモヤモヤと考えていたこと。どうしようか迷っていたけど、アップします。

国民投票、実は私も昨年署名した。「負けたらどうする?」って人もいたけど、当時はなんらかの形で白黒つけるしかないのだと思っていた。でも、「賛同人」にはならなかった。今井氏の『「憲法九条」国民投票』を知ってて、ひっかかったから。

改憲についての考え方は置いといて“原発ワンイシュー”で民意を示すならいいと思った。今だって純粋な気持ちから運動している人を批判したくはない。ただ、私は今となっては距離を置きたいと感じるのは否めない。

「人殺し(戦争)の是非」を多数決(投票)で決めちゃいけないのと同じで、原発のような危険極まりないものの是非を多数決で決める、ってのはかなり乱暴な話だと気づいたからだ。当時は私の心が焦っていて思い至らなかった。

多数決=民主主義ではない。多数決は議決の手続きでしかないし、意思決定のプロセスとしてははなはだ問題の多いものだと思う。それは結局、“民意”を数の論理に還元してしまうから。そしてこれは直接投票だろうと変わらない原理だ。

戦争や原発といったHumanity の根幹に関わるものを、数の論理に還元していいとは、私は思わない。

そして最近、国民投票“推進派”や“擁護派”の中に原発“推進派”と全く同じ論理の型で“反対派”を批判する人がいることに少なからぬ驚きを覚えている。

国民投票の背景に政治的思惑がある可能性を指摘する人を「陰謀論」と呼び、デモや署名活動に参加せずに意見を言う人を「軍師気取り」と呼ぶ。イメージに訴えかける「あだ名」で相手を揶揄するやり方って、どっかで見なかったっけ?「〜教」とか。

あるいは「現場至上主義者」。「事件は現場で起きてんだよ!」を正当性の根拠とする人々は、批判者を現場を知らない“キャリア組(?)”と見なして無視しようとする傾向がある。

「現場主義」は逆転した「特権主義」となりやすい。自分が福島入りして映画を撮ったことをある種の特権的行為としながら脱原発運動をクサしていた映画監督がいたが、ある意味同じことをやってることに気づくべきだ。

「負けるわけがない」という主張もどう考えても理性的とは言えない。それは「事故るわけがない」というかつての原発推進の理屈と同型。「万が一、負けたときどうするか」を具体的に考えていないのも同じ。

「負けても脱原発運動は終わらない。真の民主主義が達成されるまで続く」というのは吉本隆明の原発肯定論を思わせる。「後戻りはできない」と。一見もっともだが、具体的なリスク回避の議論が欠如した「全か無か」式の思考だと思う。

だって、原発が一回事故ったら取り返しがつかないのと同様、脱原発だって「うまくいかなかったからもう一回」って、日本でそんな余裕はないでしょう、ホントは?そんなことみんな分かってるはずでしょう?

「国民投票」にはある種のロマンチシズムがある。日本は史上最悪の核災害を起こしてしまったが、そこから真の民主主義への道を歩み始める、みたいな。そういう象徴的達成を欲する気分はよく分かるが、社会運動にロマンを絡めるとろくな事がない。

今いちばん必要なのは、放射性物質による汚染に関して正確な情報を流通させることと、安全な水と食材を確保するルートを確立すること。一人でも多くの人が危険を避けるための具体的な行動を起こせるようになること。

すでにそこに存在してしまっている危機に具体的に対処することを最優先すべきだと私は切に思う。

「揶揄」はしたくないが、もし逃げられない人が代償行為でデモや署名運動にのめり込む傾向があるとしたら最悪だ。逃げられないんだったら、逃げられるようにする(なる)のが第一。自分の生活ひとつ変えられない人に社会が変えられるか?


posted by snail trail at 16:13| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする