2012年07月25日

ふつうの人々

先日、インドで知り合ったヨガ・スクールの校長(彼は「スクール」ではなく「グルクラム」と呼んでいるが)にメールを書いた。彼は南インドの古都マイソールを本拠地としていて、今、日本の若者をインドに呼んでヨガを中心に伝統医療などを体系的に教える学校を創りたいと考えている。バブル経済によって急速に開発され、破壊され、変質していくインドの風景に危惧を抱いており、都市部を離れて食料自給をベースにしたコミュニティーをつくることにも関心があるという。

妻がマイソールで数日、彼のところでヨガを習い、レッスン後に一緒に市内観光したのが縁の始まり。どういうバックグラウンドの人なのかは正直、詳しく知らない。ただ、非常にちゃんとした英語をしゃべる人で、考え方もしっかりしていて共感できる。少なくともまっとうな議論のできる人だ。向こうもおそらく私のことを日本人には珍しく英語でコムズカシイ話のできるヤツだと踏んだのだろう、帰国後、「意見を聞かせてほしい」と前述の件の概略を送ってきた。「一緒に何かできないか」って。

キターーーー(´Д`;)ーーー!!! 

・・ァハハハ
まあ、相手はインド人ですからねーw
でも俺は思った。
彼がたとえどんなとんでもない詐欺師であったとしても、野田をはじめとする今の日本政府の嘘つきどもの言うこと聞いてるよりは害が少なかろう!
というわけで黒ヤギさんにお返事書きました。

最初は日本で学校をやりたいとか言ってたから、ヤメトケ、と言っといた。
事故直後のチェルノブイリでヨガ教室開くようなものだ。今後、放射能汚染によってどんな被害が出てくるか誰にも分からない。政府は瓦礫の拡散焼却と食品の流通基準の引き下げで、被曝を国民にとっての‘既成事実’と化したがってる。まあ、いろんな考え方があるかもしれないが、私は個人的にはオススメできない、と。

そしたら、今度はインドに日本人を呼んでヨガと自然医療を学んでもらい、身につけた知識を日本に帰って役立ててもらったらどうか、と言ってきた。日本人は英語がネックになるからなかなか難しいかもよ、と言うと、ケンブリッジ認定の英語研修メソッドのライセンスがあると言う。インドでヨガと自然療法の修行をしながら英語の勉強ができるなら、行きたがる人はいるかもしれないなあ…

まあ、俺はしがないフリーの翻訳屋でカネにもコネにも縁がないし、彼の話も具体的な事業プランからは程遠い段階だし、意見を求められても漠然としたことしか言えないわけだが、とりあえず、それならば小さな子どものいる若い母親を生徒として受け入れる体制をつくることはできないか、とサジェスチョンしておいた。そうすれば母親の研修にくっついて数ヶ月とか1年とか渡印している間、子どもは放射能から逃れ、保養することができる。NPO「チェルノブイリへのかけはし」がベラルーシの子どもたちにやっていたような受け入れを、インドでやってもらえたらすごくいいんでないか、と。

今のところこの話は2人のオジサンの妄想に毛が生えたようなものにすぎないが、瓢箪から駒で何か具体的なものへ発展する可能性がないでもない。しばらくはヤギさん同士の文通を続けてみようと思ってる。

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で、彼へのメールの中で、昨今の日本の状況について説明した。外国人に向けて自国の現状と自らの思いのたけを綴ることは、今の日本に生きているやり切れなさをどこかしら慰撫してくれるものだ。

メールでは、ここへ来て急速に勢いを増しているデモや抗議運動について、"It’s as if the quiet and obedient Japanese public has finally awaken" と書いたんだが、少し冷静に考えてみると、今の東京での抗議活動の盛り上がりに関しては、アンビバレントな思いを抱いている。地道に続けられ、今や数十万の人が集まるようになった官邸前抗議。心情的には「すげー!」と興奮しているし、長野の山奥から足を運んで一緒に叫びたいとさえ思う。しかし、その一方である種の割り切れなさと、一抹の切なさを感じるのも否めない。

その割り切れなさとは、以下の点に要約される。
@東京に大人数を動員することを称揚することで、首都圏における被曝のリスクを過小認識させるようなイメージをつくり出している。その一端として、首都圏における被曝の危険性を指摘することが、原発をなくす活動にとって有害であるかのように主張する言説を生んでいる。A原発に反対するさまざまな主張や活動の間に固定的な優先順位が存在するようなイメージをつくり出している。また、そのように主張する言説を生んでいる。B結果的に、着地点として「社会を変えるには中央からのチャンネル(政府に変えてもらう)しかない」というメッセージを送っている。C「ふつうの人々」という一般化を無反省に採用している。

私はこれらが主催者の意図するところかどうかは知らないし、そもそも主催者を批判することに興味はない。彼らの方法論はそれ自体としては筋が通っているし、脱帽するほどクレバーだとさえ思う。関心があるのはこの抗議運動によって「ふつうの人々」がどこに向かおうとしているのか、その一点だけだ。

今、日本人にできることは後退戦を戦い抜くことだけだと私は思う。25年前にチェルノブイリの事故があり、キヨシローのサマータイムブルーズで歌われた当時は30数基だった原子炉が54だか5だかに増え、そのうちの一箇所が爆発しちゃった時点で、日本の「民意」は既に負けている。原発事故が‘あってはならない事’‘取り返しのつかない事故’だということは、原発に反対しているほとんど全員が同意してくれるだろう。その「取り返しのつかない事」が既に起きてしまったのだから、もう取り返しは…つかないのだ。そのことを直視すべきだ。負けを認めて、長期的な人的損害を最小限にとどめる方策を模索しながら、それぞれが生き延びるためにベストを尽くす、というのが私に想像できる唯一の道だ。

USTで官邸前抗議を見ていて毎回驚くのは、マスクをしている参加者が少数派だということ。なぜだろう?
今、関東に住んでいる人たちの大きな割合が、心の奥底では「本当はここもヤバいんだろ、放射能?」と感じているのではないだろうか。しかし、生活を変えることができない。今の仕事を辞めたら生きていく術がない。だから、自分は腹をくくったのだ、逃げることなどできないし逃げても意味がないのだ、と自分に言い聞かせて毎日を過ごしているのではないだろうか。

ちなみに私が最後に東京に行ったのは今年の5月のことだが、311以前と寸分違わぬ「日常」が繰り広げられていることに、正直、面食らい、暗澹たる気分になったのを覚えている。昨年、関東を出て以来ずっと‘非常’スイッチが入ったままの私の目から見ると、マスクなどもってのほかの顔で、軽く汗ばむような陽気に薄着になったOLたちがヒールを響かせて歩いているその街の風景は、ほとんど非現実的に見えた。

いったんマスクをしてしまうと、自分自身に対して危険を認めてしまうことになる。そうなると、空気だけでなく、とうぜん食べ物や水も怖い。抗議が8時に終わった後で仲間と寄ろうと思っていたあの店は大丈夫なのだろうか?そもそも外食産業ってぜんぜん信用できないじゃないか?土日、骨休めして、月曜日からまた会社に出る、そんな日常を続けている場合なんだろうか?でも、「日常」を壊すことは自分にはできない。「ふつう」から踏み出すことはできない。そのジレンマを抗議に参加することで…
これ以上は言うまい。

官邸前抗議には「ファミリーゾーン」なるものが設けられたという。これは結果的に子連れで抗議に参加することを奨励するメッセージを送っている。主催者の“善意の”意図はよく分かる。原発のない世界を最も切実に望んでいるのは、子を持つ親と、当の子どもたちだろうから。でも、果たしてこれは賢明なことなのだろうか?動員数は増えるだろう。当の親子たちにとっても、思いのたけをぶつけ、溜飲を下げることのできる機会として歓迎されるかもしれない。しかし、東京で子どもを連れて屋外での抗議活動に参加することを奨励することは、ある種のミスリードだと私には思える。もちろん、そのリスクは参加者当人が判断すべきところだが、原発事故とその後の経過を真摯に考えるなら、たとえ専門家の統一見解がなくても、東京もまた汚染されていること、被曝の危険があることを積極的に考慮に入れるべきだろう。

「シングルイシュー」というのはおそらく様々な思想信条の違いによって抗議者同士の間に亀裂が入らないようにするためにたどり着いた大原則であって、実にもっともだと思う。しかし、それは他の事を考えてはいけない、あるいは考えるべきではない、ということを意味しないし、そのようなメッセージとして受け取られることを促すべきではない。もし、現実にそのように受け取られているとしたら早急に是正されるべきだ。これは左右共闘がどうのという戦略論の話ではない。原発をめぐるさまざまな問題提起の間に優先順位や序列をつくる契機として作用していることに注意しなければならない、と言っているのだ。例えば、今は「再稼動反対」に力を集中すべきであり、瓦礫焼却や汚染食品による「内部被曝」への心配や不安を口にすることは、運動に分断をもたらすことにつながるから控えるべきだ、などという声が聞こえてくると、私の「割り切れなさ」はいや増す。

官邸前抗議は上関の原発建設に反対する人たちの抗議運動と根本的に異なっている。ガンジーの非暴力抵抗とも根本的に異なっている。本来の意味の“直接行動”とも違うのではないかと思う。
田ノ浦の団結小屋で20年以上建設反対を訴えている人は、「逮捕されても、出てきてまたやればいい。そうやって続けるだけ」と言った。ガンジーの非暴力不服従は、魂は永遠であるという信仰の下、暴力に対して肉体を捨てて抵抗することを意味していた。いずれも、physical(物理的)な力として行使される権力に対して、physical(身体的存在を賭して)に抵抗するという点で共通している。Occupy運動をこの系列に加えることもできるだろう。

官邸前抗議は上述のようなphysicalな抵抗というより、ある種の表象行為だと思う。これだけの人数が抗議のために首相官邸を、あるいは国会議事堂を囲みました、という、言葉本来の意味でのデモンストレーション。主催者側が「デモ」という名称を避けているのはなんとも皮肉なことだ。

この運動の着地点はどこなのだろうか?
「選挙」(「占拠」ではなく)という回路を通して社会の進路を変えるためのアピールなのだろうか?
311以降ボロボロと明るみに出ているこの国の運営のデタラメさをこれでもかと見せ付けられた後では、私は個人的に「選挙」という制度だけが公正に運営されていると信じる根拠を持ち得ない。
柄谷行人は日本の代議制民主主義について「マーケットリサーチみたいなもので、これを民主主義と呼ぶのは間違いだ。要するに消費者がやっていることであって、お客さん民主主義」と言ったが、抗議と名乗っていても「数」を見せつける表象行為でしかないのなら、それもまた「マーケットリサーチみたいなもの」の一変種ということにならないだろうか。

金曜のアフター5に参加でき、“過激な人”のいない、従って逮捕されたりケガをしたり(死んだり)するリスクの少ない(ように見える)デモ(もとい、抗議)というのは、これまでこうしたことにアレルギー反応を示しがちだった「ふつうの人々」を動員するために、たいへん見事にデザインされたやり方だと思う。その効果は目覚しいものだし、功績を認めるのにやぶさかではないのだけれど、「取り返しのつかないこと」が既に起こってしまったこの期に及んでいまだに「ふつう」でいられると考えている人々の意識を変えることはできそうもない。

自分は「ふつうの人々」の一員でいたい、という意識が、日本人が原発を容認してきてしまった一因だと私には思える。

でも、ことは起きてしまった。
もう「ふつう」なんてあり得ない。続きを読む
posted by snail trail at 17:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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