2013年02月03日

負債:その5000年の歴史 1-4

"DEBT:THE FIRST 5000 YEARS"
CHAPTER 1 On The Experience of Moral Confusion (4)


第一章 よくある道徳的混乱 C

広虫女の物語は、責め立てられる立場の者が、それを相手に突っ返してやりたいという衝動を見事に表しています。死んだ金貸しとロバの話と同様、そこでは排泄物、動物、そして恥辱という要素が強調されています。明らかに、債務者が常に感じさせられている恥と不名誉を、債権者に経験させてやろうという、詩的な正義(poetic justice)が意図されているのです。それは、やはり同じ質問、「本当は誰が誰に対して、どんな借りがあるのか」と問うための、より生々しく鮮やかな方法だと言えるでしょう。

と同時に、それは「本当は誰が誰に対して、どんな借りがあるのか」という問いを発した瞬間に、人が債権者の言語で語り始めるということを如実に示しています。私たちが借りた金を返済しなければ「馬か牛に生まれ変わることで負債を償うことになる」のと同じように、無理を言う債権者もまた「償う」ことになるのだ、と。そこでは、カルマによる因果さえもが、商取引(business deal)に還元されてしまいます。

これこそが、本書の核心となる問いです。道徳や正義の意識が商取引のことばに還元されてしまうという事態は、いったい何を意味しているのか?「義務」を「負債」に還元するということはどういうことか?一方が他方に転じたとき、いったい何が変わるのか?そして、市場によってあまりに多くを形成されている言語で、私たちはそれをどう語るのか?あるレベルでは、義務と負債の違いは、単純で歴然としています。負債とは、特定の額の金を支払う義務のことです。そのため負債は、他の形態の義務と異なり、正確に数量化することができます。このことによって負債は、シンプルで、冷たく、非個人的なものとして扱うことができるようになり ― 結果として、移行可能になります。誰かに何かしてもらった借りがある、あるいは命の恩人だ、などという場合、それはその特定の“誰か”に対する借りです。ところが、元金4万ドル金利12パーセントのローンがある、などという場合、実のところ貸し手が誰であるかに意味はありません 。さらに貸し手も借り手も、相手が何を求め、何を必要とし、どこまでの能力があるのか、などいうことを考える必要がなくなります。恩や、敬意や、感謝を負っているのなら、当然考えるであろうことです。人間的な結末について考慮する必要もなくなります。元金や、収支や、違約金や、利率の計算さえしていればいいのです。家を手放し、土地を追われて流れ者となろうが、娘が鉱山で体を売って働くことになろうが、不幸なことかもしれませんが、債権者にとってはどうでもいいことです。金は金、取引は取引というわけです。

この視点から見たとき重要になってくるのは ―  本書においてかなりのページを割いて探究することとなるでしょうが ― 道徳を非個人的な数値に変えてしまう金の力です。これによって、本来ならあまりに非道でぞっとするような行為さえ正当化されてしまいます。これまで私が強調してきた暴力という要素さえ二次的なものに見えてくるかもしれません。「負債」と単なる道徳的義務の違いとは、債務者の所有物を差し押さえたり、足を折るぞと脅したりすることで強制的に義務を遂行させる武装した男たちがいるかどうかではありません。端的に言って、債権者が負債を数量的に明示できる手段を持っているかどうかなのです。

とは言え、仔細に見ていけば、これら二つの要素 ― 暴力と数量化 ― は緊密に連携していることが明らかです。実のところ、一方だけで成り立っている例を見つけるのは不可能に近いでしょう。フランスの金貸しの話に登場する有力者の友人たちは、教会の権威にさえ楯突くことができました。そうした力を行使しなければ、事実上違法に貸した金を、回収することなど不可能ではないでしょうか?広虫女は債務者に徹底的に厳しく当たりました ― 「情け容赦がなかった」 ― しかし、彼女の場合、夫が郡司だから、強気で通すことができたのです。バックに武器を持った男たちがいない者に、そのような厳密な態度を固持する贅沢は許されません。

暴力、あるいは暴力を用いるという脅しによって、人間関係を算術に変えてしまうやり口は、本書の話の流れの中で何度も何度も繰り返し登場することになるでしょう。突き詰めていくと、負債という主題につきまとうあらゆる道徳的混乱は、すべてそこから発しています。そこからくるジレンマは、文明そのものと同じくらい古いものです。古代メソポタミアの最も古い記録の中にそのプロセスを見ることができますし、そのもっとも古い哲学的な表現がヴェーダの中に見られます。有史以来、無限の変奏を生み出しながら繰り返し現れ、現代の社会制度の根幹に今も流れています。国家と市場、自由/道徳/社会性などについての私たちのもっとっも根本的な思考が、戦争と征服と奴隷制によって形作られてきました。そして私たちはそのことを認識することすらできません。他のやり方で物事を想像することすらできなくなっているからです。

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負債の歴史を再検証してみる必要性が、今、ことさらに高まっていると考えるのには、ある明白な事情があります。2008年9月に始まった金融危機は、世界経済のすべてをあわや止めてしまうところまでいきました。実際、あの時、世界経済は様々な局面で止まってしまったのです;船は海を航行するのを止め、何千、何万隻もが乾ドックに入れられました。建設用クレーンは解体され、ビルの建設がストップしました。多くの銀行は貸付を行わなくなりました。このことの余波を受けて、社会全体に怒りと当惑が広がったばかりでなく、負債とは何か、金とは何か、そして国の命運をも握るようになった金融機関のあり方を問う、社会的な議論が実際に始まる機運が高まりました。

しかし、それはほんの一瞬のことでした、議論は結局、実現しなかったのです。

人々がそのような議論を受け入れる気になった理由は、それまでの10年余り聞かされてきた話が、とんでもない大嘘だったということが目の前で明らかになったからです。他にマシな言い方などありません。それまで何年もの間、人々は高度にソフィスティケートされた金融技術革新について聞かされてきました;商品先物取引、クレジットデリバティブ、不動産抵当証券担保債券(CMO)デリバティブ、ハイブリッド証券、債務スワップ、等々。こうした新しいデリバティブ市場はあまりに複雑すぎるため、ある投資信託会社では取引プログラムを担当させるために宇宙物理学者を雇ったという、まことしやかな噂があるほどです。金融の専門家ですら歯が立たないほど複雑になってしまったというわけです。

ここには明らかなメッセージがあります:そういったことは専門家に任せておきなさい。自分で理解しようとしても絶対に無理。金融資本家がどんなにいけ好かない連中であろうと(この点についての異論はほとんど聞かれませんでしたが)、有能なのは間違いない。実際、彼らは超人的なまでに優秀であり、ゆえに金融市場を民主的に監督することなど、どだい無理なことなのだ、と。(知識人にも尻馬に乗った者が大勢いました。2006年と2007年に学会に出席したときのことをよく覚えています。流行に敏感な社会理論家たちが、最新の情報テクノロジーとリンクしたこうした新しい形態の証券取引は、時間や可能性、さらには現実そのもののあり方をも変容させるシフトの到来を告げるものだ、などと主張する論文を発表していました。「アホか!」と思ったのを覚えています。まさにそうでしたが。)

すべてが崩壊した後に振り返ってみれば、そうしたものの多くは恐ろしく手の込んだ詐欺以外の何ものでもなかったことが明らかです。その事業の内実は、以下のようなものです;最終的に必ず不履行となるよう設計された不動産ローンを貧しい家庭に組ませる;デフォルトするまでどれくらいかかるかを賭けの対象にする;賭けと抵当をパッケージにして機関投資家に売る(債務者が老後の資金を預けている銀行かもしれません);何があっても儲かると太鼓判を押し;証券を通貨のように流通させるよう投資家を促し;賭け金を支払う責任を巨大な保険コングロマリットに転嫁し;そこが最終的な負債を抱えきれずに沈むようであれば(当然そうなります);人々の血税をもって救済する。
別の言い方をすれば、これは1970年代後半に銀行がボリビアとガボンの独裁者に金を貸した際の方法を恐ろしく複雑にしたやり口です。すなわち、全くもって無責任な貸付を行い、その事実が判明すると、政治家や官僚たちが大慌てで、何があっても払い戻しが行われるよう保証するというわけです。たとえそのためにどれほど多くの人々の命と生活が蹂躙され、破壊されることになろうと。

違いは、今回、銀行はそれを信じがたい規模で行ったということです。彼らがつくり出した負債額は世界のすべての国のGDP(国内総生産)を合わせたものより大きかった ― そして、そのことで世界はきりもみ降下を始め、もう少しでシステムそのものを破壊するところでした。

軍や警察は、暴動や混乱が起こることを予測して準備しましたが、そうした事態にはなりませんでした。システムのあり方が大きく変わることもありませんでした。当時、資本主義そのもであるような企業(リーマンブラザース、シティバンク、ゼネラルモーターズ)が崩れかかり、彼らが主張する並外れた英知がすべて嘘だったことが判明したことで、少なくとも負債と金融機関についての広範な議論を一からし直すことになるだろうと、世界中の人々が期待しました。そして、それが議論だけでは終わらないことを。

アメリカ国民の多くはラディカルな解決策を受け入れる用意があるように見えました。世論調査によれば、国民の圧倒的多数は、経済にどんな影響を及ぼす結果になろうと金融機関を救済すべきではないと考えていました。そして、悪質なローンをつかまされた一般の人々をこそ助けるべきだと。これはアメリカ合衆国では珍しいことです。植民地時代からこのかた、アメリカ国民は債務者に同情心を持たない国民でした。アメリカはほとんどが国を逃れた債務者たちが入植してできた国であることを考えると、これはある意味で奇妙なことですが、「道徳とは負債をきちんと支払うことである」という考えがどこよりも深く浸透している国なのです。植民地時代、債務を焦げ付かせた者は、耳を釘で杭に打ち付けられました。アメリカ合衆国で破産法がつくられたのは、世界的に見ても非常に遅かった;1787年アメリカ合衆国憲法で、新政府に破産法をつくるよう課しているにもかかわらず、1898年にいたるまで、破産法をつくるための動きはすべて「道徳的見地から」退けられていたのです。

まさに画期的な変化でした。そうであったからこそ、おそらく、メディアや議会において問題提起する立場の人間たちは、「今はマズい」と判断したのでしょう。合衆国政府は、3兆ドルのバンドエイドで傷口を覆って、あとは何も変えませんでした。銀行は救済されました。小口の債務者は、ごくわずかな例外を除いて、補償されませんでした。それどころか、30年代以来の大不況のさなかに、すでに彼らに対するバックラッシュが始まっていました。政府によって救済された金融機関が政府に働きかけ、財政の立ち行かなくなった一般市民に対して全力で法を執行するようにさせたのです。ミネアポリス-セントポールの『スタートリビューン』紙の記事には、「金を借りることは犯罪ではない。なのに、返済が滞ったことを理由に人を投獄することがふつうに行われている」とありました。ミネソタでは、「債務者に対する逮捕令状の使用はこの4年間で60パーセント増加し、2009年には845件を記録した。イリノイ州とインディアナ州南西部では、裁判所命令の負債返済日に遅れたという理由で債務者を刑務所に送る裁判官もいる。極端なケースでは、ある程度の支払額を用意できるまで拘留され続ける場合もある。1月(2010年)には、イリノイ州ケニーの男性が、材木置き場の地代300ドルを用意できるまで「無期懲役」を言い渡された。」

別の言い方をすれば、かつての債務者の監獄のようなものが再び出現しようとしているのです。その一方で、根本的な議論は止まったまま、金融機関の救済に対する大衆の怒りは上げ足の取り合いで支離滅裂となり、私たちは次の金融カタストロフに向けて不可避的に転がり落ちていくようです ― 私たちに考える余地があるのは、あとどれくらいでそれが起きるのかということだけでしょう。

今となってはIMF―今やグローバル資本主義の良心として自らを再定義しようとしていますが―さえもが、このままのコースで進んでいけば、次の危機が起きたときには救済は来ないだろうと、警告を発しています。人々はもはやそのようなことを許しはしないだろう。そして、その結果、本当にすべてが崩壊してしまうだろう、と。ある記事の見出しにありました;「IMF 2度目の救済は"民主主義を脅かす”と警告」(もちろん、彼らの言う「民主主義」とは「資本主義」のことなのですが。)グローバルな経済システムを動かしていることを自認し、ほんの数年前はそのシステムが永久に存続するかのように振る舞っていた人々でさえ、今やいたるところに黙示録のラッパの音を聞いているというのは、考えさせられる事態です。

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今回に関しては、IMFの言い分には理があります。私たちが時代の転換点に来ていると信じずるに足るありとあらゆる理由があります。

私たちには周囲の世界で起きていることを、全く新しい事態だと考えたがる傾向があります。マネーの世界ではことさらにそうです。バーチャルマネーの出現、現金がカードになり、ドルが電子的な信号データになることが、かつてない革新的な金融の世界への扉を開いたのだという話を、何度聞かされたことでしょうか。こうした、かつてない領域に突入したのだという思い込みが、ゴールドマンサックスやAIGといった手合いに、自分たちの最新金融インスツルメントは常人の理解を超えたすごいものなのだと人々に容易に信じさせることができた背景にあります。しかし、もっと広い歴史的な視点から見ると、バーチャルマネーは決して新しい物ではないことがすぐに明らかになります。実のところ、それは貨幣の原初的な形態であり、文明の起源そのものと同じくらい古いものです。確かに、貨幣についての2つの支配的な見方があり、時代によってその2つの間を行き来しているのが分かります。地金主義 ― 金や銀こそが貨幣そのものであると見る立場 ― と、貨幣を抽象的なもの、商取引のためのバーチャルな単位と見なす立場です。しかし、歴史的に言って、クレジット貨幣が先に来ます。私たちがこんにち目撃しているのは、例えば中世ヨーロッパ、あるいは古代メソポタミアにおいては当たり前と考えられていた見方への回帰なのです。

歴史は、これからどんなことが起こるかに関するヒントも与えてくれます。例えば;過去のバーチャルなクレジット貨幣の時代においては、必ずと言っていいほど、すべてが滅茶苦茶にならないようにするための制度がつくられてきました ― まさしく現在そうなっているように、貸し手が官僚や政治家と手を組んで人々からすべてを搾り取ったりしないようにするためです。それには、債務者を保護する制度の創出が伴います。私たちのクレジット通貨の新時代の幕開けは、全く逆向きにことが進んでいるようです。それは、債務者ではなく債権者を保護するIMFのようなグローバルな機構をつくることから始まったのですから。同時に、ここで問題にしているような歴史的スケールにおいては、10年とか20年は意味を持ちません。これから何が起こるのか、私たちにはほとんど手掛かりがありません。

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本書は負債の歴史についての本です。同時に、本書ではその歴史を、人間と社会のありようと、そのあり得べき姿を照射するのにも使います。私たちは互いに何を負っているのか、そもそもこの問いを発することは何を意味しているのか。

というわけで、本書ではまず、いくつかの神話に風穴を開けることから始めます。第2章で取り上げる「物々交換という神話」にとどまらず、神や国家に対する“原初の”負債という強力な神話にも言及します ― それらはさまざまな意味で、経済、そして社会とは何かに関する私たちの“常識”を形成する土台にかかわる神話です。

その“常識”に基づく見方では、〈国家〉と〈市場〉が正反対の原理として相対しながら、すべての上に君臨していることでしょう。しかしながら、歴史的な事実が明らかにするのは、その2つが同じ起源から生まれ、常に分かちがたく関連し合っているということです。そして、こうした“神話”に共通するのは、あらゆる人間的関係を〈交換〉に還元してしまうという傾向だということが分かってきます。あたかも、私たちの社会とのつながり、あるいは宇宙とのつながりでさえ、ビジネスと同じタームで説明できるとでもいうように。

では、〈交換〉以外に何があり得るのか?という問いが持ち上がります。第5章では、人類学の成果を引きつつ、経済生活の道徳的基礎についての考えを論じることで、その答えへの導入を提示します。
次に、貨幣の起源へと戻り、〈交換〉という原理そのものが大部分、暴力の結果として生じたこと ― 貨幣の真の起源は犯罪と賠償、戦争と奴隷制、名誉、負債、買戻しにあることを示します。
そこからさらに、第8章では、時代によってバーチャル貨幣と実質貨幣の間を大きく行き来してきた、過去5000年におよぶ負債と貸金の歴史を論ずる道が開けます。

本書で語られる発見の多くは、全く予想外かもしれません。近代の権利と自由に関する考えの起源が、古代の奴隷の法律にあること。投資資本の起源が中世中国の仏教にあること。よく知られたアダム・スミスの議論の多くが、中世ペルシャの自由市場理論家の仕事から生まれたと考えられること(偶然にもこの話は現在のイスラム世界の政治的主張を理解する上で興味深い視点を提供してくれます)。

こうして、資本主義と帝国に支配されたこの5000年の歴史に対する全く新しいアプローチを試みるための舞台が整います。そして私たちは、こんにちの状況において何が賭けのテーブルに上がっているのかについて、少なくとも問いを発することができるようになるはずなのです。

もうずいぶん長いこと、知識人の間では、「大きな問い(Great Questions)」を発することはしないというコンセンサスがあったように思います。しかし、もはやそれを避けて通ることはできなくなりつつあるのではないでしょうか。


posted by snail trail at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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