2016年06月18日

空飛ぶ車と右肩下がりの利益率について〜B〜

Of Flying Cars and the Declining Rate of Profit
DAVID GRAEBER

 これでパズルのピースがほぼ出そろったように見える。60年代に入る頃、保守的な政治勢力は、テクノロジーの進歩がもたらす、既存の社会を揺るがすような効果を警戒しだした。さらに事業主は、生産ラインの機械化による経済的インパクトを懸念し始めた。折しもソ連の脅威が薄れ始めたことで、リソースの流れを社会的・経済的アレンジメントを大きく揺さぶることのない分野へと再配分することが可能になった。それどころか、進歩的な社会運動の成果を無効にすることや、合衆国エリート層が言うところの「グローバル・クラス・ウォー」への勝利を決定的にするためにリソースが注ぎ込まれるようになった。このプライオリティーの変化は、大規模な政府プロジェクトからの撤退と市場への回帰として喧伝されたが、実際には政府主導の研究が宇宙開発や代替エネルギーなどといった分野から、軍事、情報、医療技術へとシフトしただけだった。

 もちろん、これですべてがスッキリするわけではない。そもそも、予算が潤沢に与えられるようになった分野の研究においてすら、50年前に期待されたような成果がまるで上がっていないのは何故なのか、ということの説明がつかない。ロボット工学の研究予算の95パーセントを軍が握っているのだとしたら、今頃は目から殺人光線を発射するキラー・ロボットが戦場に投入されているはずではないか?

 確かに、この数十年で軍事テクノロジーは進歩してはいる。私たちが冷戦を生き延びられた理由の一つは、核弾頭の性能が評判通りのものだったのに対して、発射システムはそうではなかったからだ。大陸間弾道ミサイルは特定の施設どころか、特定の都市を標的にすることさえおぼつかないような命中精度だった。このような状態では、ファーストストライク(先制核攻撃)に踏み切る戦略的な意味が無い。自動核報復システムを作動させて世界を破壊するのが目的なら話は別だが。

 現在の巡航ミサイルはこれに比べれば精度が高いとはいえ、いまだに数百発撃っても、特定の個人(サダム、オサマ、カダフィ)を暗殺することができないらしい。そして光線銃は実現していない。これは開発に着手されなかったからでは決してない。ペンタゴンは殺人光線の研究に膨大な資金を投じたはずだ。にもかかわらず、それに近いものと言えばいまだにレーザーだけだ ―確かに完璧な狙いで発射され、敵兵が正面から光源を見つめれば失明する危険はあるが… これでは戦術的にも技術的にもあまりに情けないだろう。レーザーは50年代のテクノロジーだ。出力をセットして敵を麻痺させることができるフェーザー(※訳注:スタートレックの位相光線銃)などは構想すらされていない。歩兵戦で使われる兵器と言えば、いまだに世界中でいちばんポピュラーなのはAK-47で、この自動小銃はソビエトで設計され、その名のごとく1947年に導入された。

 インターネットは革新的な技術かもしれない。しかし、とてつもなく速くて世界中からアクセス可能だとはいえ、しょせんは図書館と郵便局と通販カタログを組み合わせたものでしかない。50年代、60年代のSFマニアに、インターネットこそが彼の時代以降に出現した最も劇的なテクノロジーの成果だと言ったら、ひどく落胆するだけだろう。「世界中の科学者が50年かかって実現した最高のものがそれかい?俺たちは自分で思考するコンピューターを期待してたんだ!」

 70年代以降、研究開発資金は全般的には劇的に増大している。中でも瞠目すべきは企業セクターからの資金の増加で、今では私企業からの投資が政府の研究開発予算の二倍に相当するまでになった。そして、その政府予算さえも実質ドル価値で言えば60年代よりはるかに多い。それほど研究開発への投資額は膨れ上がっているのだ。 確かに“基礎研究”“知的探究心による研究”“青空研究”などと呼ばれる、短期的な実用性を追及しない ―よって予期せぬブレイクスルーが起こる可能性が最も高い― 研究への投資の割合は小さい。しかし、全体で動いているカネがとてつもないものなので、基礎研究への資金供給のレベルも全般的に見れば上がっている。

 にもかかわらず、その割に成果が振るわないのは、仔細に観察すれば明らかだろう。100年前にあったような絶え間ないパラダイムシフトの連続 ―遺伝子学、相対性理論、精神分析、量子力学― は望むべくもない。なぜだろう?

 その理由の一つは、一握りの巨大プロジェクト ―いわゆる“ビッグ・サイエンス”と呼ばれるもの― へのリソースの集中にある。よく引き合いに出されるのはヒトゲノム計画だ。30億ドル近いカネを使い、5か国で何千人という科学者やスタッフを動員した結果わかったのは、遺伝子配列を操作しても他人にとって有益な結果はたいして得られないということだけだった。こうしたプロジェクトを巡るハイプや政治的投企のありさまを見れば、現代においては基礎科学研究でさえ政治的、行政的、そしてマーケティング的要請に突き動かされていることがよく分かる。これでは革新的なことなどほぼ起こりようがないだろう。

 私たちはシリコンバレーやインターネット黎明期の神話に酔って、あるがままの姿を見ることができなくなっている。おそらく多くの人は、現代では研究開発というものは、反骨精神旺盛な起業家や、オープンソースのソフトウェア開発のように脱中心化された企業集団によって行われていると想像しているのではないだろうか。これは真実ではない。そういったタイプの研究チームが結果的に成果を上げることが多いのは確かだが、研究開発自体はいまだに巨大な官僚的プロジェクトによって推進されているのである。

 実は変わったのは官僚制のありようのほうだ。政府、大学、企業の絶え間ない相互貫入の結果、あらゆる人々が企業世界に起源を持つ言語、感受性、組織形態を採り入れるようになった。これはマーケッタブルな製品をつくり出すには効果があるかもしれない。企業とはそもそもそれを目的にデザインされた組織だからだ。しかし、独創的な科学研究を育成するという面では、結果は壊滅的だったと言わざるを得ない。

 私自身の経験から語れるのは、アメリカとイギリスの大学についてだ。どちらの国の大学でも、この30年間で管理事務に費やす時間が文字どおり爆発的に増え、他のあらゆる仕事を圧迫するようになった。私のいる大学でも管理職(アドミニストレーター)の数が教職(ファカルティ)の数を上回っているし、その教員たちでさえ、授業と研究を合わせたのと同等またはそれ以上の時間を管理事務に費やすことを期待されている。この傾向は多かれ少なかれ世界中の大学に共通して見られる。

 管理事務の増大は、大学が企業的な経営手法を取り入れたことの直接の結果だ。こうした動きはいつだって効率化、あらゆるレベルへの競争の導入、などという名目で正当化されてきている。しかし現実には、誰もが何かを売り込もうとすることに自分の時間の大半を費やすことになっただけだ。補助金の申請、書籍出版の提案、学生の就職斡旋や奨学金査定、同僚教員の査定、新たな学際的専攻/研究所/学会/ワークショップの設立趣案、などなど。もはや大学自体も、未来の学生や出資者に対してマーケティングされるブランドでしかない。

 大学は今やマーケティングに席巻されている。想像力や独創性を育むなどと言った文句の踊る文書を産出しながら、実際には想像力と独創性をゆりかごの中で絞め殺していると言っても過言ではない。この30年間、アメリカの大学から社会科学の分野での新しい重要な仕事はひとつも出ていない。私たちはもはや中世の修道僧のように、70年代のフランス思想の注釈を飽きもせず書き続けているだけだ ―もし現代のジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコー、ピエール・ブルデューが現れたとしても、教職員の終身雇用資格(テニュア)を与えることはできないだろうという後ろめたさにつきまとわれながら。

 かつてアカデミアは、エキセントリックで実社会に居場所のない知性のための避難所だった。今やそこは職業的セルフ・マーケッターが跋扈する世界となった。私たちは歴史上、稀に見る異様な自己破壊的発作により、社会の中からエキセントリックで実用性のない知性の居場所を抹消してしまったようだ。その結果、彼らは実家の地下室に引きこもり、時折インターネット上で突発的な自己表出をするだけとなった。

 最小限の研究費で個人研究が可能な社会科学の分野ですらこうなのだから、宇宙物理学者にとって状況がどれだけ酷いかは想像に難くない。実際、最近ジョナサン・カッツという宇宙物理学者が、科学を志す学生に対して警告を発した。誰かの遣いっ走りとしてお決まりの10年を耐え抜いたとしても、君たちの最良のアイデアは機会あるごとにクサされるだろう、と。

君たちは研究よりも提案書を書くことに多くの時間を費やすようになる。さらに最悪なことに、君の提案書は君のライバルによって査定されることになる。君は自分の興味を追求することなどできず、他人の批判を予測し、それをどうやって逸らすかに才能と努力のすべてをつぎ込むことになるだろう。重要な科学的問題を解明することはそっちのけで… 言うまでもないことだが、提案書にとって独創的なアイデアなどというものは自殺行為も同然だ。なぜなら、それはうまくいくことが保証されていないわけだから。

 テレポーテーション装置や反重力シューズが実現しない理由がだいたい分かった気がしないだろうか。ふつうに考えて、科学的な創造性を最大にしたければ、並外れて頭のいい人々を集めて、思いついたことを何でも追求できるリソースを与え、好きにやらせるのが一番だろう。ほとんどはモノにならないだろうが、1人か2人はとてつもない発見をするかもしれない。反対に想定外のブレイクスルーを可能な限り抑え込みたいのなら、研究者たちにこう言えばいい。あらかじめ研究から何が得られるかが確実に分かっていなければリソースは与えられない、と。そして、誰が最も説得力のある提案書を出してくるか競わせるのだ。彼らは与えられた時間の大半をそれに費やすだろう。

 自然科学においては、こうしたマネージメント主義の暴虐に加え、研究成果のプライベタイゼーション(私有化)が著しい。イギリスの経済学者デビッド・ハービーが指摘するように“オープンソース”の研究というのは新しい概念ではない。学術研究において研究者は研究用資材と研究成果を共有するのが当たり前だったわけで、それはいつだってオープンソースだったのだ。もちろん競争はあったが、友好的なものであり排他的ではなかった。これは現代の企業セクターに属する科学者たちにはもうあてはまらない。そこでは発見は嫉妬深く護られる。そしてこの企業的エートスが学界や研究機関にまで浸透した結果、公的な研究予算を得ている学者たちですら、発見を個人の所有物のように扱うようになった。学術出版社は、出版された情報をどんどんアクセスし難くしていき、知的コモンズをさらに囲い込んでしまっている。こうして、友好的なオープンソースの競争であったものが、古典的な市場における競争と似たようなものに変質してしまった。

 プライベタイゼーションはさまざまな形をとる。もっとも極端な例は、大企業が自らの利益に反するような不都合な発明を買い上げ、握り潰してしまうというものだろう。(いったい石油企業によって買い上げられ、金庫に入れて鍵をかけられたままになった新しい人工合成燃料はどれだけあるのだろうか。知る術はないが、そんなことは全く起きていないと考えるほうが難しい。)もっと隠微なのは、冒険的で突飛で、すぐに結果が出ないような試みをすべからく意気阻喪させるマネージメント主義のやりかただ。意外なことにインターネットもここでは問題の一部である。ニール・スティーヴンソンは言う;

企業や大学で働く人なら誰でも、以下のような場面を目撃したことがあると思う:何人かのエンジニアが集まって、アイデアを出し合っている。議論をするうち、可能性のありそうな新しいコンセプトが形を成してくる。すると、部屋の隅でラップトップを開けている誰かがちゃちゃっとググって、この“新しい”アイデアが実は古いものであったことを告げる。既に誰かが同じこと ―あるいは多少なりとも似たようなこと― を試みていたというわけだ。失敗したか成功したかは、この際関係ない。失敗したのなら、経営者がそれを再び試みるためにカネを使うことを承認するはずはない。誰だって仕事は失いたくないものだ。成功したのなら、当然パテントが取得されており、新規にマーケットに参入することは不可能だと考えられる。最初に考えついた者が“ファースト・ムーバ―・アドバンテージ(先行者利益)”を行使し、“バリア・トゥ・エントリー(参入障壁)”を設けているのがふつうだ。おそらくこんなふうにして、何百万、何億という見込みがあるアイデアが流れてしまったことだろう。

 このように、私たちの文化的生活のあらゆる相を、小心な官僚的心性が覆い尽くしている。クリエイティビティ、イニシアティブ、起業精神などといったものは空疎な飾り文句でしかない。コンセプチュアルなブレイクスルーを成し遂げる可能性のある知性ほど予算に与る見込みが低く、たとえブレイクスルーがあったとしても、その最も革新的な可能性の中心をフォローアップして追求しようとする者は現れないだろう。

 ジョヴァンニ・アリギは、南海泡沫事件以降、イギリスの資本主義はほぼ企業の形を採らなくなったと指摘している。産業革命の頃には、イギリス経済は高度な金融と小さな家族経営の会社に負うようになった。このパターンは次の世紀 ―科学的発展と技術革新が最大化した時代― を通して続いた。(当時のイギリスは現代のアメリカとは全く対照的に、奇人変人に対して寛容だった。よくある利用法として、彼らは地方の教区牧師に任命され、アマチュア科学者として数々の発見に貢献した。)

 現代の官僚的コーポレイト・キャピタリズムは、イギリスではなくアメリカ合衆国とドイツによって創られた。英国の後にどちらが覇権国家の座に着くかを巡って、二度も血みどろの戦争を戦った二国である。二つの世界大戦のクライマックスは、どちらの国が先に原子爆弾を ―当然、政府主導のプログラムによって― 開発するかというものだった。相応しいことに、現在のテクノロジーの停滞が1945年、すなわちアメリカが世界経済のオーガナイザーとしてイギリスに取って代ってから顕著になったことは特筆すべきである。

 アメリカ人は自分たちが官僚的だとは考えたがらない ―その真逆だ。しかし、官僚制を政府機関特有の現象と考えるのを止めれば、まさしく官僚国家そのものになっているということが分かるだろう。ソ連に対する最終的な勝利の結果、得られたのは市場の席巻ではなかった。実際にそれがもたらしたのは保守的なマネージメント・エリート、企業官僚の不動の支配だった。彼らは短期的、競争的、損益収支的思考によって、少しでも革命的な意義のあるものをすべからく握り潰してしまう。

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 もしあなたが、自分が官僚主義的な社会に生きていると気づけないとしたら、それは官僚的なノルマや手続きがあまねく浸透し過ぎて、見えなくなっているためだ。あるいはさらに悪いことに、それ以外のやり方を想像する事さえできなくなっているのだろう。

 コンピューターは私たちの社会的想像力を狭める上で大きな役割を担った。18世紀から19世紀における産業の機械化の結果、世界中でフルタイムの産業労働者が増加するという逆説的な事態が生じたように、管理事務の負担を減らすために設計されているはずのソフトウェアが私たちをパートタイムあるいはフルタイムの管理事務員に変えてしまった。大学教授が助成金関係の事務に忙殺されることを避けられないように、家庭の主婦もまた子どもを学校に通わせるために毎年数週間かけて40ページにも及ぶオンライン・フォームに記入することを当然のごとく受け入れている。誰もが銀行やクレジットのアカウントを管理するために携帯電話にパスワードを入力するのに時間を費やしている。かつては旅行代理店やブローカーや会計士がやっていた仕事を覚えるために、どんどん自分の時間を取られるようになった。

 平均的なアメリカ人は一生のうちのべ6か月もの時間を、信号待ちに費やしているという統計があった。書類やオンラインフォームの記入に関する同様の統計があるかは分からないが、少なくとも同じくらいの時間にはなるだろう。人類の歴史上、これほど多くの時間を書類仕事に費やしている国民は例を見ないだろう。

 この資本主義末期の破壊的な段階において、私たちは詩的テクノロジーから官僚テクノロジーへと移行しつつある、と言えるかもしれない。ここでいう詩的テクノロジーとは、奇想天外な空想を合理的技術を用いて実現することだ。詩的テクノロジーは文明の歴史と同じくらい古い。ルイス・マンフォードいわく、最初の高度な機械は人間でできていた。エジプトのファラオがピラミッドを建設できたのは、高度な管理手順を完成させていたからだ。彼らは生産ラインのテクニックを発達させた。複雑な仕事をいくつもの単純な工程に分解し、それぞれを作業員のチームに割り振った。当時の機械的なテクノロジーといえば斜面と梃子くらいなものだったが、管理監督の力が農民の群衆を巨大な機械へと創り上げたのだ。後世になって発明された複雑な工学的機械も、そもそも人間を組織化する原理を基に設計されていると言うこともできるだろう。

 私たちはそれらの機械 ―人間でできたものであれ、ピストンや車輪やスプリングでできたものであれ― によって不可能な夢が実現するのを実際に目撃してきた: 大聖堂や、大陸間鉄道や、月ロケットなど。もちろん、詩的テクノロジーには本質的に恐ろしいところがある。ポエジーとは優美で自由なものであるのと同じくらい、暗く悪魔的な起源を持つものだ。しかし詩的テクノロジーにおいては、合理性と管理技術はつねに何か夢のような目的のために使われるものだった。

 この観点から言えば、ソ連の気違いじみた巨大プロジェクトの数々は ―実現されなかったものさえも― 詩的テクノロジーの極みであったと言えるだろう。今の世界は全く逆だ。ヴィジョンや、創造性や、現実離れした夢がなくなったというわけではない。ただ、それらはおぼつかなく漂うだけで、もはや実現する気配すらない。歴史上稀に見る超大国が数十年をかけて、もう空想的で共同的な大事業を構想することはできないのだと国民に言い聞かせてきたのだ。たとえ環境の危機が迫っており、地球の未来が懸かっていようと。

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 こうしたことすべては政治的にどのような意味を持つだろうか?まず、私たちは資本主義に関する基本的な思い込みのいくつかを考え直さなくてはならないだろう。ひとつめは、資本主義と市場は同じものであり、どちらも国家の産物である官僚主義とは相容れないというもの。

 ふたつめの思い込みは、資本主義は本質的にテクノロジーに関して先進的だという考えだ。この点に関してマルクスとエンゲルスは産業革命に幻惑されて判断を誤ったように見える。いや正確に言えば、工業生産の機械化が資本主義を破壊するという点については正しかった。間違っていたのは、それでも工場主たちが競争によって機械化を余儀なくされるだろうという予測だ。そうならなかったのは、彼らの分析とは異なり、実は市場における競争は資本主義にとって不可欠ではないからだ。現代の資本主義を見たらマルクスとエンゲルスは目を丸くするだろう。そこでは競争のほとんどは巨大な半独占企業の官僚的構造内部でのマーケティングの形をとっている。

 資本主義を擁護する者たちは、大まかに三つの歴史的根拠を主張する。ひとつは、資本主義が急速な科学技術の発達を促した、というもの。ふたつめは、たとえ少数の人間に莫大な富が集中することになったとしても、それは全体的な繁栄を増大させてもいる、というもの。三つめは、その過程で、すべての人にとって安全で民主的な世界を実現している、というもの。いまや資本主義がこの三つのどれもやっていないことは明らかだ。事実、今では擁護者の多くも資本主義が“良い”システムだという主張を取り下げ、それが“唯一可能な”システムなのだという言い方に変わってきた ―少なくとも現代社会のような複雑で高度なテクノロジーを実現しうる唯一可能なシステムだ、と。

 しかし、現行の経済的アレンジメントだけが、未来において可能なあらゆるテクノロジーがもたらす社会において唯一バイアブルなものだなどと、どうして言えるだろう?馬鹿げた議論だ。誰にも分かるわけがないではないか?

 この立場をとる人たちは、実は政治的スペクトラムの両極に存在する。人類学者の間でも、アナーキストの間でも、私は時おり文明を完全否定するタイプの人々に遭遇する。彼らは現行の産業テクノロジーが資本主義特有の抑圧を生むと考えるだけでなく、それはどんな未来のテクノロジーについても同じことだと強弁する。それゆえ、人類が解放されるには石器時代に戻るしかない、と言うのだ。むろん、私たちの多くはテクノロジーに関してそこまで決定論的ではない。

 一方、資本主義が不可避だと主張するためには、技術革新に関して決定論的である必要がある。ネオリベの狙いが、資本主義以外の経済システムの可能性を誰も信じない世界をつくり上げることなら、必然的で救いのある未来への希望を抑圧するだけでは足りない。根本的に世界を変え得るようなあらゆる技術革新を否定しなければならない。ここに矛盾がある。資本主義の擁護者たちは「技術革新はもう起きない」とは言えない ―それでは資本主義が先進的ではないということになってしまう。そこで彼らは、テクノロジーは日々進歩していて、私たちは驚きに満ちた世界に生きていると主張するのだが、その“驚き”の内実とは、つつましい商品改良か(「最新のiPhone!」)、近々実現する発明のウワサか(「いよいよ空飛ぶ車が開発されるらしい」)、情報とイメージを弄ぶためのさらに凝った技術か、今以上にもったいぶった書類記入のプラットフォームのことでしかないときている。

 私はネオリベラル資本主義だろうがどんなシステムだろうが、こんな企てに成功するだろうとは思えない。まず、テクノロジーの進歩を先導しているフリをしながら、秘かにそれを抑え込むことに根本的な無理がある。アメリカはインフラの荒廃、地球温暖化に対する無策、そして中国が有人宇宙飛行プログラムを推進する中でそこから撤退するという象徴的な敗北などで、かなりマズイ印象を世界に与えている。第二に、変化を永久に抑え込むことはできない。ブレイクスルーは必ず起こる。不都合な発見をいつまでも抑圧し続けることはできない。世界のまだ官僚化の進んでいない地域 ―あるいは官僚が創造的な思考に対してさほど敵対的でない国― がゆっくりとだが確実にリソースを獲得し、アメリカとその同盟国が放棄した地点から歩み始めるだろう。そして、この場合はインターネットがコラボレーションと情報拡散のツールとなり、壁を打ち崩すのに一役買ってくれるかもしれない。ブレイクスルーはどこで起きるだろう?それは分からない。3Dプリンターがロボット工場の代わりとなるかもしれない。あるいは何か別のことかもしれない。しかし、それは必ず起こる。

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 ひとつだけ確実に言えることがある。それは現在のコーポレイト・キャピタリズム ―あるいは他のどんな資本主義のフレームワークの中でも起きないだろうということだ。火星にドームを建設したり、地球外の文明との交信を試みたりするためには、まず今とは別の経済システムを考え出す必要がある。新しいシステムもまた巨大な官僚システムにしかならないって?なぜ、そう決めつける?現存する官僚的構造を破壊することからしか、何も始まらない。そして、洗濯やキッチンの掃除をしてくれるロボットが発明されるためには、資本主義よりはるかに平等な富と権力の分配に基づいたシステムで置き換えなければならない ―他人に家事労働をさせるスーパー・リッチも、その家事を引き受けようとする貧困層も存在していない必要がある。そうなって初めて、テクノロジーは真に人間のニーズに則して方向づけられるだろう。そして、これこそがヘッジファンドの経営者やCEOの死手を振りほどかなければならない一番の理由ではないだろうか。私たちの夢を、そうした連中が作った牢獄であるスクリーンの中から自由にしよう。想像力を再び、人類の歴史を動かす実質的な力の座に返り咲かせるために。
(おわり)
posted by snail trail at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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