2016年05月23日

空飛ぶ車と右肩下がりの利益率について〜@〜 デビッド・グレーバー

Of Flying Cars and the Declining Rate of Profit
DAVID GRAEBER

 はっきりと口にされない疑問 ―あるいは失望感、裏切られた感覚― が私たちの頭上を漂っている。それは、子どものころ信じていた「大人になった時の世界」に関するものだ。ここで言及するのは、いつの世も子どもが聞かされる定番のウソのことではない(「世の中は公平だ」とか「一生懸命働けば報われる」だとか)。そうではなく、ある特定の世代 ―1950年代、60年代、70年代、80年代に子ども時代を送った世代― が信じ込まされてきた約束のこと。それは具体的な約束というより「大人になったとき世界はこうなっている」という一連の予測として提示されていたかもしれない。そして、はっきりと約束されていたわけではなかったがために、それが実現しなかったことが明らかな現在、私たちはただ当惑するしかない。憤ってみせたとしても、そこには憤っている自分自身に対する恥ずかしさ、そもそも当時の大人たちを他愛もなく信じてしまったことに対する恥ずかしさがつきまとうだろう。

 簡単に言えば、空飛ぶ車はどうしちゃったんだ?ってこと。フォースフィールドや、トラクタービームや、テレポーテーションポッドや、反重力スレッドや、トライコーダー、不死の薬や火星植民地だの、20世紀半ばから後半にかけて子ども時代を送った者なら、当然、今の時代には実現していると思っていたすばらしい科学技術の数々はどこにあるんだ?いったんは実現しそうに思えたもの ―例えばクローン人間や人工冬眠など― もけっきょく期待外れに終わっただけだった。いったいどうなってしまったんだろう?

 コンピューター技術の発展が目覚ましいのはよく分かっている。まるで思いがけない代償がもたらされたかのように言われるが、実はコンピューターだって50年代に期待されたほどの進化は現在に至っても遂げていないではないか。 意義ある会話を楽しめるコンピューターは出現していないし、犬を散歩に連れて行ったり、服をクリーニングに出してくれたりする程度のロボットも存在しない。

 アポロの月着陸の時8歳だった私は当時、魔法の年2000年に39歳になった自分はどんな世界に生きているだろうと胸を膨らませたものだ。素晴らしい未来を想像していたかって?もちろん。当時は誰だってそうだった。裏切られたと思う?正直、当時からSFに登場する技術がすべて実現するとは考えてはいなかったものの、まさかひとつも実現しないとは思いもしなかった。

 千年紀の変わり目の頃、私はきっと「何故、未来のテクノロジーは思ったように発展しなかったのか」に関する膨大な反省がなされるものだと期待していた。ところが、権威ある見解はどれも ―右も左も同じように― 「私たちはかつてないようなテクノロジーを手にしたユートピアに生きている」という仮説から思考を開始していた。

 この居心地の悪い感覚に対処するいちばんありがちな方法は、無視することだ。発展すべき技術は発展したのであり、そうならなかったものは馬鹿げたものとして退ければいい。「え?君が言ってるのは『ジェットソンズ』とかあの手のもののこと?」と、あんなのは子どもだましだよ!と言わんばかりに。もちろん、オトナである私たちは『ジェットソンズ』の描く未来が『フリントストーン』の描く先史時代とどっこいどっこいのものであることなど良く分かっている。

 しかし70年代、いや80年代になってもナショナルジオグラフィックやスミソニアンと言ったもっとまっとうなソースが、子どもたちに近々宇宙ステーションや火星への遠征が行われると教えていた。かつてのSF映画の制作者たちははっきり何年と時代設定をして、未来のファンタジーを描いたものだ。その日付はたいてい一世代ほど先のことでしかなかった。1968年、スタンリー・キューブリックは、商業月飛行、都市型宇宙ステーション、木星への旅のあいだ宇宙飛行士たちを仮死状態に保って管理する人格を持ったコンピューターなどを、ほんの33年後の2001年の設定で描いた。同時代の観客がそれを不自然と思わずに受け入れるはずだと考えたのだ。あの映画に登場するテクノロジーで実現したのはビデオ通話くらいだろう ―だがそれは公開当時でも技術的に可能だったものだ。『2001年』は古典的すぎるというなら『スタートレック』はどうだ?スタートレックのミュトスもまた60年代に創られたものだが、その後も新シリーズが制作されてきた。そのため、例えば『スタートレック・ヴォイジャー』の視聴者は、世界は1990年代に起きた遺伝子操作によって生まれた超人類との戦争「優生戦争」からの回復期にある、などという番組の設定を受け入れざるを得なかったわけだ。

 1989年の『バック・トゥ・ザ・フューチャーU』では、律儀に空飛ぶ車や反重力スケートボードを2015年のふつうの高校生の所有物として登場させていたが、もはやそれが未来予測なのか冗談なのかははっきりしなくなっていた。

 こうしてSFは次第にはっきりした日付を口にしなくなり、“未来”を純粋なファンタジーの領域として描くようになった。中つ国やナルニア国、あるいはスターウォーズの「遠い昔、はるか彼方の銀河系で」のように。その結果、SFで描かれる“未来”はもはや未来ではなく、ある種の別次元宇宙、ドリームタイム、テクノロジーが導く「ここではないどこか」となった。それはあり得べき未来のどこかに存在する。エルフやドラゴンスレイヤーが“過去”に存在したように。かくして未来は、教訓話や神話的ファンタジーを投影し、消費的娯楽のデッドエンドに供するためのスクリーンでしかなくなった。

*************

 「ポストモダニズム」と呼ばれることになる文化的感受性とは、実現しなかったテクノロジーの進歩に対する引き延ばされた内省なのではないか?私は『スターウォーズ』の新作を見ながらふと、そんなことを思った。映画はひどいものだったが、特殊効果のクォリティーには感嘆せざるを得なかった。50年代のSF映画のぎこちない特撮を思い起こしながら、当時の観客が現在の映像テクノロジーによって可能になったことを知ったらさぞかし驚くだろうと考えたが、そこでハタと気付いたのだ。「いや、そんなことはない。彼らは全く感心しないはずだ。だって彼らは今頃はこういう世界が現実になっているだろうと考えていたんだから。こういう世界をシミュレートする技術が発展しているだけじゃなく。」

 この「シミュレート」という言葉がカギだ。70年代以降発展を遂げたのは主に医療技術と情報技術、つまり大きく括ればシミュレーションのテクノロジーだ。それはジャン・ボードリヤールとウンベルト・エーコが“ハイパーリアル”と呼んだもの、イミテーションをオリジナル以上にリアルに見せることを可能にするテクノロジーなのだ。ポストモダン的感受性は私たちが歴史上前例を見ない時代に突入したことを告げる。そこではもはや新しいものは何も生まれず、進歩や解放といった大きな物語は意味を持たない。すべては今やシミュレーションであり、アイロニックな反復であり、断片であり、パスティーシュである。こうした考えが説得力を持つのは、テクノロジーのブレイクスルーが既にあるもの、もしくは一向に実現しないと私たちが悟ったもののヴァーチャルな投影を作り出し、伝達し、再構成する技術に限られているという技術的環境においてである。私たちが火星のジオデシックドームで休暇を楽しんだり、ポケットサイズの核融合炉を持ち歩いたり、テレキネシスやテレパシーを可能にするデバイスを実現したりしていれば、このような言説は出現しなかっただろう。ポストモダンのモメントとは、苦い失望として体験されるはずだったものを、画期的で、エキサイティングで、新しいものであるかのように粉飾するためのものだ。

 ポストモダンという概念の初期の使用形態 ―それは主としてマルクス主義の流れから発したものだ― においては、この技術的文脈は明言されていた。フレドリック・ジェイムソンの『ポストモダニズム あるいは後期資本主義の文化理論』では、資本主義の新しい技術的段階に則した文化理論を「ポストモダニズム」として提唱している。この新しい資本主義とはマルクス経済学者エルネスト・マンデルが1972年にすでに提唱していたものだ。マンデルは人類が農耕革命、産業革命に続く「三度目の技術革命」の端緒におり、コンピューターや、ロボットや、新しいエネルギーや、新しい情報技術が産業労働に取って代わるだろうと論じた ―のちにこれは「労働の終焉」と呼ばれるようになった。労働者は皆、設計者やコンピューター技師となってぶっ飛んだアイデアを思い付くだけで、人工頭脳を備えたサイバー工場がそれを生産するというわけだ。

 「労働の終焉」については70年代後半から80年代初頭にかけてかまびすしく議論された。社会思想の担い手たちは労働者階級が存在しなくなったら伝統的な労働者主体の闘争はどうなるのかと懸案した(答え;アイデンティティ政治に取って代られる)。ジェイムソンはこのような新しい時代における歴史意識と感受性のあり方を探求しているつもりだった。

 しかし現実に起こったことはこうだ。情報通信技術と新しい輸送システムの普及 ―一例を挙げれば貨物輸送のコンテナ化― により、産業労働は東アジアやラテンアメリカなど安い労働力がある地域へアウトソースされるようになった。大規模製造業者は、母国で要求される高度な生産ラインの技術を採用することなく目的を果たすことができるようになった。

 ヨーロッパ、北アメリカ、そして日本に住んでいる者の目から見れば、未来は予想どおりだったと言えるかもしれない。煙を吐く工場群は姿を消し、労働は下層のサービス業従事者と、のっぺりとしたカプセルの中でコンピューターを弄る上層に別れた。しかし、そうした上っ面をすべて剥がせば、この“脱労働”社会はとんでもない詐欺に過ぎないという不穏な認識が横たわっている。私たちが履く凝ったハイテク・スニーカーは人工知能をもったロボットや自己複製能力をもつナノテク分子によって作られているわけではない。昔のシンガー・ミシンと大差ない機械を使って、メキシコやインドネシアの女工が縫っているのだ。彼女たちはWTOもしくはNAFTAの貿易協定の結果として先祖代々の土地を失った農民の娘たちだ。ポストモダンの感受性、その終わりなき表象と表層のたわむれというやつを一皮剥けば、その下にはこの後ろめたい罪悪感が横たわっている。
(つづく)
posted by snail trail at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。