2012年10月12日

ピンチはチャンス

人間は自分のやっていることを分かってしているつもりでいるけども、実は私たちの行為の大半はほとんど意識に上らない脳の活動に支配されている。そろどころか、私たちが意識する生活体験は、本当は他の理由でなされた行為をあとづけ的に合理化したものにすぎないのかもしれない。

神経学者(neurologist 近年流行りの呼び方なら“脳科学者”)のV・S・ラマチャンドランは「半側無視」という奇妙な症例について書いている。脳の特定部位に損傷を負った患者がいて、彼女は体の片側(左側だったと思う)にあるものを認識できない。ところが、この患者の障害は〈何を〉を処理する部位にあり、〈どうする〉を処理する部位は損傷を受けていない。その結果、この患者は例えば体の左側にあるポストのような箱を認識することはできないが、そこに物を投函することはできるのだ。
箱に空いた穴は細長いので、物を入れるには縦にするか横にするかして、穴の形に合わせなければならない。この女性は、そこにポストがあることは分からないのに、間違わずに物を投函することができるのだそうだ。なぜ、縦にして入れたのか、あるいは横にして入れたのか訊いても、論理的には答えられない。何となくそう感じたから…

この話を読んで思ったのは、私たちが「直感」と呼んでいるものも、実はこうした意識に上らない脳の活動のポテンシャルのことなのかもしれない、ということだ。霊感、ヤマ勘、第六感… 私たちの自己意識が認識していないにもかかわらず、どうすべきか実は答えが分かっているということがある。

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近所に、私が長野に来るきっかけになった友人が住んでいる。彼は高校を卒業して以来、今まで一度も就職したことがない。二十代の頃は、夏は北海道、冬は沖縄と往復し、キャンプ場で生活していたという。一年中旅ガラス。季節労働で時折現金を稼いで、あとは好きなことをやって遊んでいた。今では三児の父となり、田圃と畑で自給しながら、農家民宿とカレー屋で生計を立てているが、基本的なメンタリティーは若いころと変わっていない。サラリーマンの家に生まれて真面目に大学まで出て就職した私は、彼と話すと内心、目から鱗が落ちる思いをすることが多い。

我が家は現在、けっこう経済的に逼迫している。世の中が不景気になると私のような業界のスキマで食ってるフリーランサーは直撃を食らう。しかも、ただでさえ仕事のタマ数が激減したところへ、こちとら“自主避難”中なもので、落穂拾いもママならない。相当なピンチである。
そんなわけで、友人の家で呑んで愚痴っていると、彼が「ピンチはチャンスやで〜」と言う。実は同じことを数日前に妻と義母に言われたばかりだった(義母に関しては「電話で私と同じこと言ってたよ」と妻から聞いただけだが)。いや、そりゃそうなんだけどさ〜…言うは易しでさ…

友人曰く、
「snailさん、人の下で給料もらって働くタイプちゃうやろ?下手に勤めたりせんほうがええんちゃう?人間、ギリギリになって、もうほんま明日までに金がいるぅ〜って段になって、初めて出てくる知恵があるで。ピンチになって初めて本物のアイデア出るよ。俺なんかこれまでずうーっとそれの連続でやってきたんやけど」
「最近、人から給料もらって経済的に安定しようって生き方って、実はものすごく危険なんやないかと思ってきてんねん。結局、会社の中でどうしようもない状況になっても辞められなくなるやろ。他の生き方でけへんようになってしまうやろ。逃げることもでけんやんか」

彼は田圃や畑をやってはいるが、根っから狩猟採集民のメンタリティーなのだ。私などは、なんやかんや言っても、どうしても仕事を中心に生活を考える。できるだけ長く継続できて、収入を安定させられる方法はないだろうか、と当然のように思案する。一方、彼にはそんな“まっとうな仕事”というコンセプトがどうやらそもそもないみたい。稲刈りが済んだ今はもう、早く雪が降り始めることをひたすら待ちわびている。冬になって雪が降ると「やらなあかんこと(農作業や仕事)」から「やりたいこと(遊び)」の季節になるんだと。もう鹿島槍の頂上からスノボで新雪に突っ込むことしか頭にないのだ。農業も彼にとってはそういうライフスタイルを成立させるための手段でしかない。必要なカネはその都度調達すればいい。

これに対して、私のような農耕系のメンタリティー(と仮に呼ぶ)は、生きるための営為をルーティン化することでリスクを最小化することを目論む。でも、そうした結果、ルーティンの内部でしかリアリティーを感じられなくなり、そこからしかものを見られなくなる。きっと、いったんこうしたルーティンを受け入れてしまうと、膨大無限な脳のシナプスの結合の中に固定的な回路ができてしまうんじゃないだろうか。そして、この小さな回路の上に“自我”、自己意識を築いてしまう。この、思考と認識と行動のルーティン化の歴史は古い。現代日本のサラリーマンなどはその究極の完成形に近いのかもしれない。

「ピンチ」はこのルーティンの“外部”を突き付けてくる。だから、それに対処するためには自分の思考と認識を超えたものが必要になる。そのような知の形態を、人は「直感」とか「勘」と呼んでいたはずだ。ギリギリに追い詰められて、「明日、カネが必要」な事態になって初めて、直感やら第六感やらを総動員することになる。だから、給料もらってしまうと「勘が鈍る」と友人は言う。そして、だからこそ「ピンチはチャンス」なのだ、と。

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インドのヒンドゥー教徒が最も崇拝しているのがシヴァという神様で、これは破壊神だ。考えようによっては、これは農耕文化の中に宗教という形で残された、狩猟採集民の心なのかもしれない。生活の、ひいては社会のシステム(ルーティン)が根本から脅かされる事態に直面しない限り、人はそのポテンシャルのすべてを発揮することはできないということを、インド人は知っているような気がする。だから、破壊神シヴァが、祟り神として畏れられるのではなく、ストレートに崇拝の対象になっているのではないだろうか。

まあ、我が家の家計のピンチなどは、所詮小さな話だ(もちろん私にとっては切実だが)。
どんなに国を挙げて平静を装い、ルーティンを続けようとしていても、日本に住む人のすべてが今、前代未聞のピンチに陥っていると考えている。
ピンチはチャンスなのだ。ルーティンにしがみつくことを止め、ギリギリのところで直感を武器に勝負すれば、脳の深奥に眠っていたポテンシャルを取戻し、新しい道を拓くことができるかもしれないではないか。



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2012年07月25日

ふつうの人々

先日、インドで知り合ったヨガ・スクールの校長(彼は「スクール」ではなく「グルクラム」と呼んでいるが)にメールを書いた。彼は南インドの古都マイソールを本拠地としていて、今、日本の若者をインドに呼んでヨガを中心に伝統医療などを体系的に教える学校を創りたいと考えている。バブル経済によって急速に開発され、破壊され、変質していくインドの風景に危惧を抱いており、都市部を離れて食料自給をベースにしたコミュニティーをつくることにも関心があるという。

妻がマイソールで数日、彼のところでヨガを習い、レッスン後に一緒に市内観光したのが縁の始まり。どういうバックグラウンドの人なのかは正直、詳しく知らない。ただ、非常にちゃんとした英語をしゃべる人で、考え方もしっかりしていて共感できる。少なくともまっとうな議論のできる人だ。向こうもおそらく私のことを日本人には珍しく英語でコムズカシイ話のできるヤツだと踏んだのだろう、帰国後、「意見を聞かせてほしい」と前述の件の概略を送ってきた。「一緒に何かできないか」って。

キターーーー(´Д`;)ーーー!!! 

・・ァハハハ
まあ、相手はインド人ですからねーw
でも俺は思った。
彼がたとえどんなとんでもない詐欺師であったとしても、野田をはじめとする今の日本政府の嘘つきどもの言うこと聞いてるよりは害が少なかろう!
というわけで黒ヤギさんにお返事書きました。

最初は日本で学校をやりたいとか言ってたから、ヤメトケ、と言っといた。
事故直後のチェルノブイリでヨガ教室開くようなものだ。今後、放射能汚染によってどんな被害が出てくるか誰にも分からない。政府は瓦礫の拡散焼却と食品の流通基準の引き下げで、被曝を国民にとっての‘既成事実’と化したがってる。まあ、いろんな考え方があるかもしれないが、私は個人的にはオススメできない、と。

そしたら、今度はインドに日本人を呼んでヨガと自然医療を学んでもらい、身につけた知識を日本に帰って役立ててもらったらどうか、と言ってきた。日本人は英語がネックになるからなかなか難しいかもよ、と言うと、ケンブリッジ認定の英語研修メソッドのライセンスがあると言う。インドでヨガと自然療法の修行をしながら英語の勉強ができるなら、行きたがる人はいるかもしれないなあ…

まあ、俺はしがないフリーの翻訳屋でカネにもコネにも縁がないし、彼の話も具体的な事業プランからは程遠い段階だし、意見を求められても漠然としたことしか言えないわけだが、とりあえず、それならば小さな子どものいる若い母親を生徒として受け入れる体制をつくることはできないか、とサジェスチョンしておいた。そうすれば母親の研修にくっついて数ヶ月とか1年とか渡印している間、子どもは放射能から逃れ、保養することができる。NPO「チェルノブイリへのかけはし」がベラルーシの子どもたちにやっていたような受け入れを、インドでやってもらえたらすごくいいんでないか、と。

今のところこの話は2人のオジサンの妄想に毛が生えたようなものにすぎないが、瓢箪から駒で何か具体的なものへ発展する可能性がないでもない。しばらくはヤギさん同士の文通を続けてみようと思ってる。

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で、彼へのメールの中で、昨今の日本の状況について説明した。外国人に向けて自国の現状と自らの思いのたけを綴ることは、今の日本に生きているやり切れなさをどこかしら慰撫してくれるものだ。

メールでは、ここへ来て急速に勢いを増しているデモや抗議運動について、"It’s as if the quiet and obedient Japanese public has finally awaken" と書いたんだが、少し冷静に考えてみると、今の東京での抗議活動の盛り上がりに関しては、アンビバレントな思いを抱いている。地道に続けられ、今や数十万の人が集まるようになった官邸前抗議。心情的には「すげー!」と興奮しているし、長野の山奥から足を運んで一緒に叫びたいとさえ思う。しかし、その一方である種の割り切れなさと、一抹の切なさを感じるのも否めない。

その割り切れなさとは、以下の点に要約される。
@東京に大人数を動員することを称揚することで、首都圏における被曝のリスクを過小認識させるようなイメージをつくり出している。その一端として、首都圏における被曝の危険性を指摘することが、原発をなくす活動にとって有害であるかのように主張する言説を生んでいる。A原発に反対するさまざまな主張や活動の間に固定的な優先順位が存在するようなイメージをつくり出している。また、そのように主張する言説を生んでいる。B結果的に、着地点として「社会を変えるには中央からのチャンネル(政府に変えてもらう)しかない」というメッセージを送っている。C「ふつうの人々」という一般化を無反省に採用している。

私はこれらが主催者の意図するところかどうかは知らないし、そもそも主催者を批判することに興味はない。彼らの方法論はそれ自体としては筋が通っているし、脱帽するほどクレバーだとさえ思う。関心があるのはこの抗議運動によって「ふつうの人々」がどこに向かおうとしているのか、その一点だけだ。

今、日本人にできることは後退戦を戦い抜くことだけだと私は思う。25年前にチェルノブイリの事故があり、キヨシローのサマータイムブルーズで歌われた当時は30数基だった原子炉が54だか5だかに増え、そのうちの一箇所が爆発しちゃった時点で、日本の「民意」は既に負けている。原発事故が‘あってはならない事’‘取り返しのつかない事故’だということは、原発に反対しているほとんど全員が同意してくれるだろう。その「取り返しのつかない事」が既に起きてしまったのだから、もう取り返しは…つかないのだ。そのことを直視すべきだ。負けを認めて、長期的な人的損害を最小限にとどめる方策を模索しながら、それぞれが生き延びるためにベストを尽くす、というのが私に想像できる唯一の道だ。

USTで官邸前抗議を見ていて毎回驚くのは、マスクをしている参加者が少数派だということ。なぜだろう?
今、関東に住んでいる人たちの大きな割合が、心の奥底では「本当はここもヤバいんだろ、放射能?」と感じているのではないだろうか。しかし、生活を変えることができない。今の仕事を辞めたら生きていく術がない。だから、自分は腹をくくったのだ、逃げることなどできないし逃げても意味がないのだ、と自分に言い聞かせて毎日を過ごしているのではないだろうか。

ちなみに私が最後に東京に行ったのは今年の5月のことだが、311以前と寸分違わぬ「日常」が繰り広げられていることに、正直、面食らい、暗澹たる気分になったのを覚えている。昨年、関東を出て以来ずっと‘非常’スイッチが入ったままの私の目から見ると、マスクなどもってのほかの顔で、軽く汗ばむような陽気に薄着になったOLたちがヒールを響かせて歩いているその街の風景は、ほとんど非現実的に見えた。

いったんマスクをしてしまうと、自分自身に対して危険を認めてしまうことになる。そうなると、空気だけでなく、とうぜん食べ物や水も怖い。抗議が8時に終わった後で仲間と寄ろうと思っていたあの店は大丈夫なのだろうか?そもそも外食産業ってぜんぜん信用できないじゃないか?土日、骨休めして、月曜日からまた会社に出る、そんな日常を続けている場合なんだろうか?でも、「日常」を壊すことは自分にはできない。「ふつう」から踏み出すことはできない。そのジレンマを抗議に参加することで…
これ以上は言うまい。

官邸前抗議には「ファミリーゾーン」なるものが設けられたという。これは結果的に子連れで抗議に参加することを奨励するメッセージを送っている。主催者の“善意の”意図はよく分かる。原発のない世界を最も切実に望んでいるのは、子を持つ親と、当の子どもたちだろうから。でも、果たしてこれは賢明なことなのだろうか?動員数は増えるだろう。当の親子たちにとっても、思いのたけをぶつけ、溜飲を下げることのできる機会として歓迎されるかもしれない。しかし、東京で子どもを連れて屋外での抗議活動に参加することを奨励することは、ある種のミスリードだと私には思える。もちろん、そのリスクは参加者当人が判断すべきところだが、原発事故とその後の経過を真摯に考えるなら、たとえ専門家の統一見解がなくても、東京もまた汚染されていること、被曝の危険があることを積極的に考慮に入れるべきだろう。

「シングルイシュー」というのはおそらく様々な思想信条の違いによって抗議者同士の間に亀裂が入らないようにするためにたどり着いた大原則であって、実にもっともだと思う。しかし、それは他の事を考えてはいけない、あるいは考えるべきではない、ということを意味しないし、そのようなメッセージとして受け取られることを促すべきではない。もし、現実にそのように受け取られているとしたら早急に是正されるべきだ。これは左右共闘がどうのという戦略論の話ではない。原発をめぐるさまざまな問題提起の間に優先順位や序列をつくる契機として作用していることに注意しなければならない、と言っているのだ。例えば、今は「再稼動反対」に力を集中すべきであり、瓦礫焼却や汚染食品による「内部被曝」への心配や不安を口にすることは、運動に分断をもたらすことにつながるから控えるべきだ、などという声が聞こえてくると、私の「割り切れなさ」はいや増す。

官邸前抗議は上関の原発建設に反対する人たちの抗議運動と根本的に異なっている。ガンジーの非暴力抵抗とも根本的に異なっている。本来の意味の“直接行動”とも違うのではないかと思う。
田ノ浦の団結小屋で20年以上建設反対を訴えている人は、「逮捕されても、出てきてまたやればいい。そうやって続けるだけ」と言った。ガンジーの非暴力不服従は、魂は永遠であるという信仰の下、暴力に対して肉体を捨てて抵抗することを意味していた。いずれも、physical(物理的)な力として行使される権力に対して、physical(身体的存在を賭して)に抵抗するという点で共通している。Occupy運動をこの系列に加えることもできるだろう。

官邸前抗議は上述のようなphysicalな抵抗というより、ある種の表象行為だと思う。これだけの人数が抗議のために首相官邸を、あるいは国会議事堂を囲みました、という、言葉本来の意味でのデモンストレーション。主催者側が「デモ」という名称を避けているのはなんとも皮肉なことだ。

この運動の着地点はどこなのだろうか?
「選挙」(「占拠」ではなく)という回路を通して社会の進路を変えるためのアピールなのだろうか?
311以降ボロボロと明るみに出ているこの国の運営のデタラメさをこれでもかと見せ付けられた後では、私は個人的に「選挙」という制度だけが公正に運営されていると信じる根拠を持ち得ない。
柄谷行人は日本の代議制民主主義について「マーケットリサーチみたいなもので、これを民主主義と呼ぶのは間違いだ。要するに消費者がやっていることであって、お客さん民主主義」と言ったが、抗議と名乗っていても「数」を見せつける表象行為でしかないのなら、それもまた「マーケットリサーチみたいなもの」の一変種ということにならないだろうか。

金曜のアフター5に参加でき、“過激な人”のいない、従って逮捕されたりケガをしたり(死んだり)するリスクの少ない(ように見える)デモ(もとい、抗議)というのは、これまでこうしたことにアレルギー反応を示しがちだった「ふつうの人々」を動員するために、たいへん見事にデザインされたやり方だと思う。その効果は目覚しいものだし、功績を認めるのにやぶさかではないのだけれど、「取り返しのつかないこと」が既に起こってしまったこの期に及んでいまだに「ふつう」でいられると考えている人々の意識を変えることはできそうもない。

自分は「ふつうの人々」の一員でいたい、という意識が、日本人が原発を容認してきてしまった一因だと私には思える。

でも、ことは起きてしまった。
もう「ふつう」なんてあり得ない。続きを読む
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2012年04月29日

“みんな”

日本人って不思議な人々だなぁと思う。“みんな”と共にあることに無上の歓びを感じるんだろうなあ。

だから、"RIOT"はたぶん起きない。それは“みんな”に迷惑をかける行為だから。「避難とか放射能危ないとか騒いでる人はちょっと… だって、“みんな”食べてるんだし、毎日仕事して頑張ってるんだし… 自分だけいつまでも怖いとか嫌だとかいうのはちょっと…」

たぶんふつうの日本人にとって“みんな”とはぐれてしまうことは最大の不幸であり恐怖であり恥なんだ。“ひとり”になることはそれだけで負けなんだろう。

表面的に見れば、悪いこととは言えない。集合的多数のために個々が力を尽くすのは必要なことだし、美しくさえある。でも、僕自身は正直、どうしようもない居心地の悪さを感じる。

「“みんな”やってるし」「“みんな”使ってる」「“みんな”そんなこと気にしてない」「“みんな”そうやって儲けてる」そんな風にして、日本人は大量消費漬けになり、島は「開発」されつくし、手付かずの自然が残っている稀有な場所は原発の建設地となった。

そして“みんな”が大好きな割に、現代の日本人には利己的で冷たい印象を受けることのほうが多い。ホームで人身事故のアナウンスを聞いて舌打ちする人たちが、どの口で「“みんな”のため」を謳うのか。

つまり、そこには“みんな”に対する従属と配慮はあっても、ひとりひとりの“あなた”“彼”“彼女”に対する思いやり(=忍耐と寛容)はないような気がする。“私”に対しても…

“友愛”とは“ひとり”であることの重さを引き受けた者同士が、互いの相違点や反発点を許容した上で、同じ人間同士として手を差し伸べあうことだろう。

“みんな”は“ひとり”をないがしろにする。みんなと違う“ひとり”の存在を嫌がる。だからそれは“友愛”にはなり得ないし、“ひとり”が存在しない以上、誰も責任を取らないのだ。

そうそう。“みんな”においては「誰も責任を取らない」。
posted by snail trail at 18:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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