2012年12月23日

負債:その5000年の歴史 1-1

Occupy Wall Street の理論的指導者、人類学者、アクティビスト、アナーキストである David Graeber の "DEBT:THE FIRST 5000 YEARS"は、経済そのものの根源を問う非常に刺激的な本です。極めてラディカルな内容ながら平易な英語で書かれており、大学の教養レベルの英語力でも十分読みこなせます。紹介として、導入部を翻訳してみます。興味を持たれたら、ぜひ原書にトライしてみてください。

CHAPTER 1 On The Experience of Moral Confusion (1)

(3回か4回に分けて掲載します。)


第一章 よくある道徳的混乱 @

 二年前、私は奇妙な偶然の成り行きで、気づくとウェストミンスター寺院のガーデン・パーティに出席しており、いささか居心地の悪い思いをしていました。別に他の客たちが不快だったり、友好的でなかったりしたわけではないし、パーティを主催したグレーム神父は、思いやりと魅力あふれるホスト以外の何ものでもありませんでした。にもかかわらず、私はかなり場違いな気分でした。ある時点で、グレーム神父が助け舟を出してくれました。噴水のそばに私が興味を持つような人物がいると言うのです。彼女は、若くてこぎれいな身なりの、真面目そうな女性で、神父が言うには弁護士だということでした―「と言っても、アクティビスト的なタイプですよ。反貧困活動グループに法的サポートを提供するロンドンの組織で働いておられます。きっとあなたと共通の話題がたくさんあると思います。」

 私たちは談笑し、彼女は仕事について話してくれました。私は、もう何年もグローバル・ジャスティス・ムーブメント―当時メディアでは「反グローバリゼーション運動」と呼ばれていました―に関わってきたことを話しました。彼女は興味を示しました。当然、彼女もシアトルやジェノアに関する記事は読んでいたのです。催涙ガスや市街地での衝突やら何やら… でも、ああしたことすべてで、いったい何が達成できたのかしら?

 「実際…」と私。「あの最初の2年間で私たちは驚くほど多くの事を達成しましたよ。」
 「例えば?」
 「そう、例えばIMFをほとんど完全に破壊することができました。」

どうやら彼女はIMFの本質を理解していなかったようなので、私は国際通貨基金が世界中の国々に対する債権者として振る舞っていたのだということを教えてあげました―「言ってみれば、人の足を折るようなことを高度な金融の世界でやっているわけです。」

さらに私は歴史的な背景を説明しました。1970年代の石油危機の最中、OPEC諸国が新たに手に入れた膨大な富が欧米の銀行に流入し始めた結果、銀行は投資先のあてがなくなってしまったこと。シティバンクとチェイスが世界中に人を送り、第三世界の独裁者や政治家たちに融資を持ちかけたこと(当時、これは「ゴーゴー・バンキング」呼ばれていました)。当初、非常に低金利だったそうした融資の金利が、80年代初頭のアメリカの厳しい通貨政策によって、すぐに20パーセントかそこらまで跳ね上がったこと。そして、このことが80年代、90年代の途上国債務危機につながったこと。そこにIMFが介入し、融資することと引き換えに、基本的な食料に対する関税保護の撤廃や、さらには将来を見据えた食料備蓄計画の廃止、無料で医療や教育を提供することの廃止まで強要したこと。こうしたことすべてが、地球上でもっとも貧しく力のない人々に対する極めて基本的な生活支援をすべて崩壊させることにつながったこと。私は、貧困について、公共の資源の略奪について、共同体の崩壊について、地域にはびこる暴力について、食糧不足について、絶望と破壊された人生について語りました。

「で、あなたがたの立場は?」と女性弁護士は訊きました。
「IMFについてですか?私たちはそれを廃止したかった。」
「そうじゃなくて、途上国債務についてです。」
「ああ、私たちはそれも廃絶しようと考えました。早急な要求としては、IMFが構造改革政策を強要するのを止めさせること。直接的なダメージはすべてそこから来ていましたからね。それについては驚くほど短期間で達成することができました。長期的な目標は負債を帳消しにすることでした。聖書に出てくる大赦のようなものですね。私たちに言わせてもらえば、30年もの間、最も貧しい国々から最も裕福な国々に金が流れ続けたわけですから、もういい加減終わりにすべきでした。」
「でも―」
彼女はあたかも自明のことのように反論しました。
「お金を借りたわけでしょう?負債を返済するのは当然の義務だわ!」

ここへ来て私は、彼女との会話が当初、期待していたのとはだいぶ違ったものになることを悟りました。
どこから説明したらいいのでしょう?もともと金を借りたのは人々に選ばれたわけではない独裁者で、その金はそのままスイスにある彼らの銀行口座に収まったことを説明することもできます。そして返済を迫られるのは独裁者本人や、その取り巻き連中ですらなく、文字通り腹を空かせた子どもたちの口から食べ物を奪い取ることになるのだということの道義的是非を彼女に考えてもらうこともできたでしょう。あるいは、こうした貧しい国々の多くがすでに借りた額の3倍ないし4倍を返済しているにもかかわらず、複利という信じがたい方式のせいで、いまだに元金返済までに至っていないこと。また、借金を補綴するために再融資することと、その条件としてワシントンかチューリッヒでつくられた、ありがちな自由主義市場政策に従うことを強要することは、全く別だということ。そうした国々の人々はそのような政策に同意したわけではありませんし、これからも同意することはないのです。さらに、民主的な憲法を採用するよう強要しておきながら、選挙で選ばれたリーダーが政策を決定できない状況を強要するのは、あまりに不正直なやり方だと指摘することもできます。あるいは、IMFが提示した経済政策は全く効果がないということも。
しかし、ここにはもっと根本的な問題がありました。つまり、なぜ負債は返済されなければならないと考えられているか、ということです。


実は「負債は返済しなければならない」という主張は、通常の経済の原理に照らしても、正しくないのです。貸す側はある程度のリスクを背負うことが当然です。もし、どんな馬鹿げたものでも、融資が必ず回収できるものであるとするならば―たとえば破産法が存在しない場合などを想像してみてください―そのもたらす結果は悲惨なものです。貸主がとんでもない融資をしない理由がなくなってしまいます。

「一般的な常識に従えばおっしゃるとおりです」と私は彼女に言いました。「でも実は、経済の仕組みを見ると、融資とはそのようなものではないのです。金融機関というものは、利益を上げる可能性のある投資先に資金を配分する役割をするものであると言われています。もし、何が起ころうとも銀行が元金と利息を回収できるとしたら、このシステム自体が機能しなくなるはずです。例えば、私が王立スコットランド銀行の最寄りの支店にふらりと入って“実は今度のレースに関する耳寄りな情報が入りましてね。200万ポンドばかり融資してもらえませんか?”などと言ったとします。当然、私は笑いものになるでしょう。それは彼らが、私の賭けた馬が勝たなかったら金を取り戻せないことを知っているからです。でも、何があっても彼らが貸した金を取り戻せることを保証する法律があったらどうでしょう。私が娘を奴隷に売ったり、自分の臓器を売ったりしてでも返済することを強制する法律があったとしたら。そうなれば、彼らを止めるものは何もありません。どこかの誰かがコインランドリーか何かを始めるためのまっとうな起業計画を持ち込むのを待っている必要はどこにもなくなります。IMFがグローバルなレベルでつくり上げたのはまさにそうした状況でした。そもそも、そうした状況が出来上がっていたからこそ、悪人であることが明白な連中に多くの銀行がこぞって何百億ドルという融資を持ちかけることになったのです。」

それ以上深くは話せませんでした。というのも、このあたりまで話したところで酔っ払った金融マンがやって来て、私たちが金の話をしていることを知ると、“モラル・ハザード”がうんぬんといった見当はずれの話をし始めたからです。気づくとそれは彼の性的遍歴に関するぞっとしない自慢話に取って代わっていました。私は退散しました。

しかし、それから数日間、彼女の言葉が頭の中で反響していました。

「負債を返済するのは当然」

この言葉の強烈な説得力は、それが経済的ではなく、道徳的な主張であることからきています。そもそも、“道徳”とは他者に対する債務以外のなにものでもないのではないでしょうか。必要な支払いをすることこそ、責任を果たすことである。人は他者に対する義務を果たすべきであり、あなた自身も他人にそう期待する。約束を破ったり、借金の返済を拒んだりすることは、責任放棄の最たる例だとされるでしょう。

しかし、この自明性こそ、この言葉のもっとも厄介な呪縛だと私は気づきました。このような言葉は、世界で起きている恐るべき非道を、まるで取るに足らない、当たり前のことのように思わせる力を持っています。大げさに聞こえるかもしれませんが、その結果を実際に目にした者としては、このことを強調してもし切れません。
私は二年近くの間、マダガスカルの高地に住んでいました。私が到着する直前に、マラリアの大流行がありました。マダガスカル高地では遠い昔にマラリアが撲滅されたので、二世代ほどを経てほとんど人々は免疫を失っていたため、極めて深刻な事態となりました。マラリアを媒介する蚊を撲滅するプログラムには予算が必要です。蚊が繁殖していないか定期的に調査し、繁殖していることが分かれば殺虫剤の噴霧などを行う必要があります。大した金額ではありません。しかし、IMFから融資を受けていた政府は緊縮財政を強いられており、この監視プログラムを打ち切らざるを得ませんでした。その結果、一万人が死にました。私は、子どもを失って悲嘆にくれる若い母親たちに会いました。無責任な融資の結果として生じたシティバンクの損失を抑えるために、一万人の命が失われたことを正当化することができるでしょうか。そもそも彼らにとっては痛くもかゆくもない額なのです。しかし現に、仮にも慈善的な活動に携わる心ある女性が、それは自明のことだと言い放つのを私は聞きました。だって、彼らはお金を借りたのでしょう?負債を返済するのは当然だわ、と。

(つづく)




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2011年11月02日

デヴィッド・グレーバー on Occupy Wall Street

前回のジジェクのスピーチの翻訳はたくさんの方の目に触れたようで、訳者冥利につきます。

でも、僕がいちばん言葉を聞きたかった人は、実はジジェクやナオミ・クラインではなく、デヴィッド・グレーバーでした。ロンドン大学ゴールドスミスで教鞭をとる人類学者でありアクティビスト。2000年以降の反グローバリズム運動に積極的に関与してきた人です。Democracy Now ! のインタビュー(http://www.youtube.com/watch?v=CPeaFKvszKI)では、Occupy Wall St.の「オーガナイザーの一人」と紹介されています。

残念ながら訳書が少ないのですが、Occupy に関してジジェクも高く評価しているところの水平的組織化と意思決定プロセスはグレーバーが以前から提唱/実践しているものですし、モースとマルクスと人類学をつなぐ価値分析や、今回の運動と密接にかかわるDebt(負債)に関する論考など、個人的には今ドンピシャな仕事をしている人だと思っています。

以下、The Guardian に寄稿された彼の文章を翻訳しました。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/cifamerica/2011/sep/25/occupy-wall-street-protest

Occupy Wall Street rediscovers the radical imagination
The young people protesting in Wall Street and beyond reject this vain economic order. They have come to reclaim the future

Occupy Wall Street はラディカルな想像力の再発見である
ウォールストリートから各地に広がる若者たちのプロテストは虚飾の経済秩序を拒否する。彼らは未来を取り戻すためにやって来た。

なぜ皆はウォールストリートを占拠しているのか?
つい最近、警察による厳しい取締りが行われたにもかかわらず、この運動がアメリカ全土に飛び火し、国中からピッツァやらお金やら機材やらが送られてくるばかりか、各地で人々が Occupy Chicago、Occupy Florida、Occupy Dever、Occupy LAなどといった独自の運動を始めているのはなぜか?

分かりやすい理由。私たちはこの国の新しい世代による断固とした自己主張の始まりを目撃しているのだ。彼らは学校を卒業しても、仕事も未来もないばかりか、免れようのない巨大な負債を背負わされている。彼らの大半は労働者階級か、さもなければつましい家庭の出身だ。彼らは言われたとおりに勉強して、大学に入った。でも今やそのせいでひどい目に遭い、屈辱を味わされている。道徳心を欠いた怠け者呼ばわりされる人生が待っているのだ。

自分たちの未来を奪った経済界の大物たちに、一言もの申そうとすることが、それほど突拍子もないことだろうか?

状況はヨーロッパと全く同じだ。私たちはとてつもない社会的失敗を目撃しているのである。
“占拠者”たちはアイデアに満ち溢れた人々だ。健全な社会ならば彼らを動員し、そのエネルギーを人々の暮らしを良くするために活用するであろう。なのに彼らは今、自らのエネルギーを社会システムをどうやって潰すかを思い描くために用いている。

しかし、最も大きいのは想像力の欠如である。今、繰り広げられているのは、本来、2008年になされるべきだった対話を、今度こそ実現しようという要求だとも言える。世界の金融システムがあわや崩壊という危機の後、ほんのわずかな間だが、あらゆることが可能に思えた期間があった。

それまでの10年間、私たちが聞かされてきたことは全部ウソだった。市場に自己調整作用はないし、金融商品の開発者たちは無謬の天才ではなかった。そして負債は本当は支払わなくてもよいどころか、貨幣そのものが政治的な道具に過ぎず、政府や中央銀行の意のままに、膨大な金が無から生じたり、消えたりするのだ。エコノミスト誌ですら「資本主義:それは得策だったのか?」などという見出しを掲げたほどだ。

すべてを考え直すときが来たように思えた。市場とは?貨幣とは?負債とは?そして“経済”とは本来なんのためにあるのか?根源から問うのだ。そんな空気が2週間ほど続いた。そのあと、歴史上稀に見る勇気の欠如から、私たちは皆耳を手で塞ぎ、なんとかすべてを元通りに近い形に取り繕うことに必死になった。

無理もないかもしれない。この数十年の間、世界を動かしてきた者たちの本当の優先事項は、バイアブルな資本主義を創出することではなく、現行の資本主義の形こそが考え得る唯一の経済システムであり、その欠陥は取るに足らないものだという認識を私たちに植え付けることだった。その結果、私たちは今、機構全体が崩壊するのを呆気に取られたまま眺めているというわけだ。

今になってはっきりしたのは、1970年代の経済危機は決して終わっていなかったということだ。国内での安易・安価なクレジットと、海外での大量略奪でごまかしただけだ。後者は“途上国債務危機”などと呼ばれた。しかし“南”の国々は反撃した。Alter-Globalization運動は最終的に成功を収め、IMFは東アジアとラテンアメリカから駆逐された。その結果、債務危機はヨーロッパと北アメリカに里帰りした。やり口は全く同じだ。まず経済危機を宣言する。そして中立であるとされるテクノクラートにその処理を委ねた後、“緊縮財政”という名の略奪の宴を繰り広げるわけだ。

これに対してわき起こった対抗運動は当時のグローバルジャスティス運動に驚くほどよく似ている。旧態依然とした政党政治の否定、ラディカルな多様性の受容、下からの新しい民主的手続きの発明、など。違っているのはその標的だ。2000年の運動ではそれまで存在しなかった世界規模の官僚機構が相手だった(WTO、IMF、世界銀行、NAFTA)。それらの機構は民主的なアカウンタビリティを一切もたず、ひとえに多国籍資本の利益のためにのみ存在するものだった。今日の運動は、ギリシャやスペイン、そして今やアメリカといった国家の政治的階級全体を相手取っている。しかし、その本質は同じだ。抵抗者たちが公式要求を表明するのをためらう理由もここにある。政治的要求をすることは彼らが否定している政治家たちの存在理由を認めることになりかねないからだ。

しかしながら、歴史がついに創られた暁には、“アラブの春”に端を発したこの一連の動乱こそが、アメリカ帝国主義の解体に向けたいくつもの波の到来を告げる祝砲であったと記されるであろう。三十有余年のあいだ、プロパガンダを実体に優先させ、反対の政治的根拠となりそうなものをシラミ潰しに嗅ぎ出し続けた国では、若き抵抗者たちの勝算は心もとないものに思えるかもしれない。金持ちたちが、若い世代をまるごと狼に投げ与えてでも、自分たちが奪ったものの分け前を持ち去る魂胆でいることは明らかだ。だが、歴史は彼らの味方ではない。

ヨーロッパの植民地帝国の没落を思い起こしてみるといいだろう。金持ちがおいしいところを全部持ち去る、ということにはならなかった。その代わり、近代福祉国家が創出されたではないか。今回の一戦がどのような結果をもたらすかは正確にはまだ分からない。でも、30年来、人類の想像力にはめられていたカセを“占拠者”たちがついに打ち砕くことができれば―2008年9月の最初の数週間そうであったように―すべては再び交渉のテーブルに載せられるはずだ。そうなれば、ウォールストリートやアメリカ各地の都市を占拠した人々は、人類に考え得る最高の貢献をしたことになるだろう。






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2011年10月16日

ジジェクのスピーチを訳してみた

スロベニア出身の精神分析家、思想家のスラヴォイ・ジジェクの Occupy Wall St. でのスピーチがTwで飛んできました。仕事中に限って余計なことをやりたくなっちゃうのが人情というもの…
原文はこちら。
http://www.imposemagazine.com/bytes/slavoj-zizek-at-occupy-wall-street-transcript
YouTube で見ると周囲の聴衆が口伝えする「人間拡声器」の様子が分かる。プロテスターたちは拡声器を警察に取り上げられたのでこの方式に。
http://www.youtube.com/watch?v=eu9BWlcRwPQ


彼らは私たちを負け組だと言ってるようだが、本当の敗者はウォール・ストリートにいる。連中は私たちのカネで莫大な額の保釈金を払ってもらったようなものだ。私たちを社会主義者だと言うが、いつだって金持ちのための社会主義が存在しているではないか。私たちが私的財産を尊重していないと言うが、たとえここにいる全員が何週間も日夜休まず破壊活動を続けたとしても、2008年の金融崩壊で破壊された個人の財産には及びもつかない。私たちを夢想家だという。でも、夢を見ているのはこのままの世の中が永久に続くと考えている人々だ。私たちは夢を見ているのではない。悪夢となってしまった夢から目覚めようとしているのだ。

私たちは何も破壊してなどいない。私たちは単にシステムが自己破壊するのを目撃しているのだ。誰でも知ってるマンガの定番のギャグ。ネコが崖にやって来るが、足の下に何もなくなってもそのまま歩き続けてしまう。そして、ふと下を見て気づいた途端、落っこちてしまう。私たちがここでやっているのは、ウォール・ストリートの連中に「おい、下を見てみろよ!」言うことだ。

2011年4月半ば、中国政府はテレビ、映画、小説などで別の現実やタイムトラベルを描いたものを禁止した。これは中国にとってよい兆しだ。中国の人たちはまだ別の現実を夢見ることができるから、それを禁止する必要があったわけだ。この国では禁止する必要すらない。支配的システムが私たちが夢見る能力すら奪ってしまった。巷にあふれる映画を見てみるがいい。世界の終末を想像するのは簡単だ。巨大な隕石がすべての生命を死滅させるだの何だの。それなのにあなたは資本主義の終わりを想像することができない。

私たちはここで何をしているのか?共産主義時代のふるったジョークを一つ。東ドイツからシベリアへ送られることになった男の話だ。手紙を書いても検閲官に読まれてしまう。そこで彼は友人たちに言った。「暗号だ。もし私の手紙が青インクで書かれていたら、そこに書かれていることは本当だ。もし、赤インクで書かれていたら内容はウソだ。」ひと月経って、友人たちは男からの手紙を受け取る。全部青インクで書かれている。内容はこうだ。「ここではすべてが素晴らしい。店は質の良い食べ物でいっぱいだ。映画館では西側の良い映画をやってる。アパートは広くて豪華だ。ただ1つ、赤インクだけは売っていないんだ。」
これは現在の私たちの生活そのものだ。私たちはありとあらゆる自由を享受している。でも、ここには“赤インク”がない。私たちの〈非-自由〉を表現するための言葉がない。私たちが教えられる自由を巡る言説―「テロとの戦い」とかなんとか―は自由を歪曲する。あなたがたがここでやっていること。それはすべての人々に“赤インク”を与えることだ。

ひとつ危険がある。自己陶酔してはならない。確かにここで起きていることは素晴らしい。でも、祭りは安っぽい気晴らしだ。重要なのはこのあと、日常生活に戻ってからだ。何か変わるだろうか?この日々を振り返って「私たちは若くて、ビューティフルだった」なんて追憶に浸ってほしくない。「私たちはオルタナティブを思考する自由がある」これこそが私たちの基本的なメッセージであることを忘れないでほしい。このルールが破られたとしたら、私たちはあるべき世界に生きていないということだ。しかし、道は遠い。私たちは真に難しい問題と直面することになるだろう。私たちが欲しくないものははっきりしている。では何が欲しいのか?資本主義に代わる社会機構とは?どんなタイプの新しいリーダーが必要なのか?

覚えておいてほしい。問題は不正や強欲ではない。システムそのものだ。システムが否応なく不正を生む。気をつけなければいけないのは敵だけではない。このプロセスを骨抜きにしようとする、偽の味方がすでに活動を始めている。カフェイン抜きのコーヒー、ノンアルコールのビール、脂肪分ゼロのアイスクリームなどと同じように、この運動を無害な人道的プロテストにしようとするだろう。私たちはもう、コカコーラの缶をリサイクルしたり、チャリティーに募金したり、スターバックスでカプチーノを買ったらその1パーセントが第三世界の飢えた子どもたちに送られるなどといったことでは満足することができない。だから、ここに来たのだ。労働と拷問をアウトソースした後、今や婚活産業が私たちの愛と性をアウトソースし、見えてきたことは、私たちはもう長い間、政治参加をアウトソースすることを許してきてしまったということだ。それを取り戻さなければならない。

コミュニズムが1990年に崩壊したシステムを意味するのであれば、私たちはコミュニストではない。それらのコミュニストたちがこんにち、最も効率的で容赦ないキャピタリストであることを思い起こそう。こんにちの中国にはアメリカの資本主義を凌駕する勢いの資本主義があり、しかもそれは民主主義を必要としていない。だから、資本主義を批判する人が、民主主義の敵だなどと言われる筋合いはないのだ。民主主義と資本主義の結婚は終わった。変化は可能だ。

こんにち、可能であると考えられていることとは何か?メディアを追ってみればいい。テクノロジーとセックスの分野においては、あらゆることが可能であると考えられているようだ。月に旅行することも、バイオジェネティックスの力によって死を克服することも、動物やら何やらとセックスすることも。一方、社会と経済の分野においては、ほとんどあらゆることが不可能だとされている。富裕層への課税を増やしたいと言えば、競争力を損なうことになるから不可能だと言う。医療保険制度にもう少し金を回してくれと言えば「不可能だ。全体主義国家に通じる」と。死を克服できると言いながら、医療保険に予算を割けないというのは、どこかが狂った世界だ。

優先順位をはっきりさせる必要があるかもしれない。私たちが求めているのは生活水準を上げることではなく、生活を良くすることなのだ。私たちをコミュニストと呼べるとしたら、それはコモンズ(共有財)に関心を持っているという一点に尽きる。自然のコモンズ。知的財産の民営化のコモンズ。バイオジェネティックスのコモンズ。これこそが、私たちが戦わなければならない唯一の理由である。コミュニズムは確かに失敗した。しかし、コモンズの問題は今ここにある。

私たちのことをアメリカ的ではないと言う人もいる。しかし、自分たちこそが真のアメリカ人であると主張する保守派原理主義者たちはきちんと考えてみるべきだ。キリスト教徒とは?すなわち聖霊である。では聖霊とは?それは互いへの愛によって結ばれた信者たちの平等なコミュニティーであり、その成員は自らの自由意志と責任によってのみ拘束される。その意味で言えば、聖霊は今ここにいるではないか。そしてウォール・ストリートでは偶像を崇拝する不敬な異教徒たちが跋扈しているということになる。

だから、私たちに必要なのはひとえに忍耐だ。私が唯一恐れているのは、私たちがそのうち家に帰って、年に一度みんなで集まってビールを飲みながら「あの時はよかった」などと語り合うようになってしまうことだ。そうはならないと自分自身に約束してほしい。人は何かを欲しながら、それを手に入れようとしないことがよくある。自分が欲しいものを手に入れるのを恐れないでほしい。どうもありがとう。


posted by snail trail at 01:39| Comment(9) | TrackBack(0) | 翻訳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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